政策最新キーワード
新型コロナと政治的信頼
投稿者 吉田 徹:2021年8月1日
WHOが新型コロナ・ウイルス感染症(Covid-19、以下コロナ)のパンデミックを宣言してから、1年半が経とうとしている。この間、世界各国は大きな変化に見舞われた。中でも、各国で論点となったのは、「経済か命か」、すなわち公衆衛生と経済活動の比重と両立である。感染による死者も問題だが、経済活動の一時的停止によって、日本を含め、各国ではDV、自殺、うつ症状など、深刻な社会問題が生まれている。
時期区分にもよるが、各国のコロナ対策とその経済的帰結は、一般的に4つの類型に分けることができる。①致死率が低く、かつ経済的ダメージを最小化することに成功した国(中国、韓国、オーストラリア、日本)、②ロックダウンの長期化によって深刻な経済ダメージを被った国(イギリス、フランス、イタリア)、③致死率と経済ダメージが大きい国(アメリカ、ブラジル)、④致死率が高いが、経済ダメージを最小限に抑制した国(スウェーデン)。ウイルスによる致死率が生物学的要因にもよるものがどの程度寄与しているのかは不明だが、少なくとも経済・生産活動が感染者数、すなわち致死率の変数となっていることは間違いないようだ。公衆衛生(安全)と活動(自由)がどの程度天秤にかけられ、それがどのような帰結をもたらすかは、その国の政策に依存していることがわかる。
また、現在の比較政治学の重要課題として、民主主義国か権威主義国かという政治体制に応じて、効果を分類することもできる。アメリカやイギリスのような民主主義国では感染封じ込めに失敗し、中国やシンガポールといった権威主義国では成功したというイメージは広く持たれているだろう。ただし、民主主義国でも感染症抑止に相対的に成功した国(台湾やニュージーランド)もあれば、権威主義国でも失敗した国(イランなど)もあり、確たる知見はまだ提出されていないのが現状だ。ただ、感染封じ込めは、その国の政治体制に関係なく、中央政府のガバナンス能力(ここでは危機管理能力)の高低にかかっているとはいえるだろう。罰金刑とともにICT/AIを駆使した中国や韓国、台湾などに共通する要素である。
もっとも、民主主義に生きる我々にとって、場合によっては私生活に介入(私権の制限)するような中央政府の強権的な対処は必ずしも望ましくない。民主主義の質は、コロナ対策で大きく劣化し、人の自由を制限し、集会の自由などを奪ったことで、フランスとポルトガルなどは民主主義指数(英EIU)において「欠落した民主主義」へと格下げされてしまっている。
それでは、自由を制約しないままに、有効な危機管理を発揮することはできないのか――こうした観点からは、政治的な信頼が自由を制約せずに感染症対策に有効に働いたとする研究がなされている。例えば、当該国における信頼(市民間および政府・議会への信頼)の度合いと対策の厳格度は相関している。これは、市民社会の自発的協力を期待できる国では権利制限による対策に依存する必要がなく、反対に市民の協力が期待できない国では、強力な介入が求められるからだ。
また、行政の効率性と社会的信頼が低いほど、早期に感染症対策が採られるという相関も指摘されている。これも、国家と市民社会間の信頼がないため、政府が強制的な手段を早期に取らざるを得ないという仮説を支持する。事実、各国がロックダウンを実施する際、政治的信頼の高かった国の方が、人的移動(人流)がより抑制されたことも証明されている(2020年3月時点)。
こうした調査研究は、感染症対策が社会科学でいう「集合行為」(集合財を集団で獲得すること)の典型例であることを示してもいる。未知の感染症についての政府、行政、専門家などの知見や対策についての指針に疑義が持たれるならば、人々はその指示に従う誘因を持たない。そして、その結果として感染症が広がると、さらに政治行政に対する不信が高まり、ますます感染症が広がるという悪循環が生まれることになる。
ちなみに、スウェーデンは高い政治的信頼を、アメリカやフランスは低い政治的信頼の国であることが知られている。簡単にいえば、政治的信頼が高ければ自由が保証され、低ければ自由が侵害される傾向にあるということだ。
つまりは、コロナ時代における安全と自由を両立させるためには、政治的信頼が大きな鍵を握っているということになる。政治学では、民主的な政治と社会の実現には、制度への信頼や他者間の互恵関係からなる「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」が不可欠であることが定説となっている。
以上の説明が正しいのであれば、民主主義を維持したままに、どのように安全と自由を両立できるのかについて、まだまだ多くの課題が残されていることになる。と同時に、もうひとつの謎が残ることになる。それは、低い政治的信頼しか持っていない日本という国で、なぜかくも緩い対策しかとられないのか、さらになぜかくも死者数が少ないのか、という問いである。民主主義論において日本は常に例外扱いをされてきたが、これはコロナ禍でも同様のようだ。