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「観光」再考
投稿者 井口 貢:2020年12月1日
コロナ禍という長いトンネルは、収束そして終息へと向かう出口がなかなか見出せずに、苦慮は世界的に続いています。あらゆる業界では、それぞれがその対応に向けて日々奮闘と悪戦苦闘の中、尽力しています。「観光」に関わる分野でもそれは例外ではもちろんなく、その被害の甚大さは筆舌に尽くしがたく感じられます。
そこで改めて、「観光」の在り方が問われていると思います。観光に実務で取り組む人たちばかりでなく、僕たちのように大学で「観光」を学ぼうとする者たちにとっても、それはとても大切なことではないでしょうか。
限られた紙幅の中で、雑感を若干記したいと思います。
それは「観光」を、ステレオタイプ(紋切型、先入観)から解放してみませんか、ということです。
例えば「観光学」、と一言でいっても多様です。大きく分けて、「観光学」と「観光業学」が存在するような気がしてなりませんが、「観光とは経済政策である」といって憚らない某氏のような人たちの思いからみれば、「観光業学」しか「学」として存在しないでしょう。
あるいは、この時世故か「マイクロツーリズム」と主張する人(とても有名な業界人です)がいます。迷走しているようにみえる「Go
Toキャンペーン」とマッチした官民合成語のように思えて仕方ありません。「マイクロツーリズム」らしき言葉は、遥か3千数百年も前に孔子が『論語』の中で述べていますが、お洒落なこのカタカナ語とは、本質は乖離しています。もう少し身近なところでいえば、作家・吉行淳之介(1924~1994)がいう『街角の煙草屋までの旅』ともかけ離れていますよね。その差異を認識し、理解すればホンモノの(?笑)「観光学」に少しは近づけると思いますよ。
同じくもうひとつだけ、お洒落なカタカナ観光用語で考えましょうか。皆さんは「コンテンツツーリズム」という言葉を聞いたことがありますよね。少しマニアックかも知れないけれど、評判となったアニメに登場した現場への聖地巡礼、これを活かして地域は「早や儲け!」とばかり、巧みに業界人は考え地域も多く雷同します。
しかし我が国においてその原初的なものは、『古事記』や『日本書紀』あるいは『万葉集』だったりします。映像はある意味、一方的に私たちに押し付けてきます。文字という言葉の力は、行間に訴えることで私たちの想像と創造の羽ばたく力を養い「観光」を促し、そして地域の「観光」の力をも強くしてくれるはずです。
柳田國男(1875~1962)は、日本の政策科学者の嚆矢となった人です。彼の著作のひとつ『青年と学問』(1928)の中で、「旅行は学問のうち」であり、良き旅行の価値基準は「良書を求めて倦まぬこと」と同じであると考えていました。それは、両者(良い旅行と良い読書)が同様に大切なこととして、単に自分のみが良くなるのではなく、社会全体に「何か新たなるものまた幸福なるものを齎し得る」からだと捉えていたからにほかなりません。
国や行政、あるいは業界のためだけの観光であってはならないのですね。
そうして、様々な理由で旅に出ることができない人たちにとっても、「観光」の所在はあり得るということを考えてみたいものですね。