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武力紛争への政策的対応?
―紛争のメカニズムの解明とダイナミクスの制御に向けて―
投稿者 富樫 耕介:2020年8月1日
はじめに
今回は、内戦や民族紛争、テロリズムなどが頻発する現在の国際社会において武力紛争(主に内戦)への政策的な対応は可能なのかということを一緒に考えたいと思います。前もって本論の主張をまとめると、紛争のメカニズムを理解した上で、そのダイナミクスを制御する取り組みを行なっていけば、紛争への政策的対応もより良くなるのではないかということです。
さて、日本は、「平和国家」と呼ばれて久しいですが、この平和な日本で「武力紛争への政策的対応」について議論すること、あるいは学ぶことにどういう意味があるのかと疑問に感じる人もいるかもしれません。ここでは、簡単に3点から武力紛争(以下、紛争と略記)を学ぶ意味について冒頭にお話し、本題へと移りたいと思います。
第一に、紛争のメカニズムを学ぶことの意味です。あとで述べますが、紛争というと、何か大規模な暴力的衝突が突如として生じるといったイメージを多くの人が持つと思いますが、実際には、紛争とは「対立のプロセス」なのです。つまり、制度的枠組みの中で解決に至らないから、暴力を伴い制度の枠外で展開されているのです。従って、政治対立から武力紛争へと発展するメカニズムを理解しておくと、日本のような一見すると平和な国でも、潜在的対立軸や争点が鮮明化し、紛争の火種となるような社会の分断が存在しないのかを省みる一つの機会になるでしょう。
第二に、グローバルな問題としての重要性です。ウプサラ大学の紛争データベースプログラムによれば、2019年には紛争によって、少なくとも76480人が死亡しています*。単純に計算すると、毎日210人が死亡していることになります。紛争は、人為的に行われる人間の暴力的営みであるわけですが、それが多数の死者を毎日出しているわけです。紛争には、国内で発生する内戦、複数の国家を跨って生じる地域紛争、国家間の戦争がありますが、実は第二次大戦後から現在まで最も数として多いのは、内戦なのです。しかも、現代においては、戦闘の形態も多様化し、テロなどの手段が用いられるようになってきました。海外において私たちが紛争やテロに巻き込まれるリスクも増加しており、内戦などの武力紛争を理解し、対応する必要性は益々高まっています。
第三に、政策課題としての重要性です。日本で紛争への政策的取り組みなどと言っても、アメリカが行っているような強制力を伴った武力介入はできませんから、イメージが沸かないかもしれません。日本は紛争への取り組みとしてできるのは、紛争予防のための対話の促進や信頼醸成、紛争後のPKO(平和維持活動)やPKF(平和維持部隊)の展開、紛争地の開発援助など限定されています。しかも、これらの原資は国民の血税ですから、こうした支援は本当に効果があるのか、日本がするべきことなのかという議論は頻繁に提起されてきました。私がそこで述べたいのは、支援の効果の議論をしたいのならば、まず紛争のメカニズムやダイナミクスを理解しましょうよという話です。なぜならば、紛争がどのように成り立っているのか、そして、どのような時に沈静化したり激化したりするのかが分からなければ効果的な対応は困難だからです。逆に言うと、紛争に対する理解を深めることで軍事力という強制力を行使せずに紛争への対応にあたる日本の取り組みの可能性というものが見えてくるかもしれないのです。
このような紛争を学ぶ重要性を指摘した上で、以下では、どのような紛争への政策的対応が求められているのか、紛争のメカニズムとダイナミクスを解きほぐしながら一緒に考えたいと思います。
1)プロセスとしての紛争
「紛争とは何か?」と聞かれて皆さんはどう説明しますか?具体的な紛争について説明する場合と、紛争一般について説明する場合で回答は違うかもしれません。しかし、それでも必要な情報は同じはずです。
紛争とは、二者以上のアクターによって双方が決して分割・共有できないと考える価値をめぐって展開される対立のプロセスです。従って、紛争を説明する際に不可欠な情報は、誰と誰が(アクター)、何をめぐって(争点)、どのように対立しているのか(関係性)です。関係性については、もっと単純化してアクター間の権力関係、すなわち、どちら側がパワーを有し既存の政治・経済・社会システムにおけるゲームのルール(利益の取り分)を決めているのかという点にあるという見方もあります。これは、例えば、中央政府と反乱勢力のように中央政府は、既存の制度の中で権力を握り、利益の配分を決めており、反乱勢力はこの利益配分やそれを担保している制度の変更を求めているというような関係性です。当然、国家を統治し、様々な資源にアクセス可能で、軍隊も保持している中央政府側の方が、通常は反乱勢力よりも優位にあります。しかし、この権力関係が何らかの形で急激に変化したことで、権力関係の均衡が崩れ、武力紛争が発生することもあります。
さて、紛争は、対立のプロセスであると述べました。つまり、いきなり紛争が生じるのではなく、それまでに摩擦や対立があって、それが既存の制度的枠組みでは解決できないとなった時点で暴力紛争として表出しているのです。よって、紛争を見る際には、対立のエスカレーションとデスカレーションのプロセスを知る必要があるというのが、紛争解決学(Conflict
resolution)の立場です*。
この図を見てもらうとわかりますが、社会において多様な集団がいても、紛争が発生していない地域があります。このような地域は、例えば集団間の相違に気がついても、それを個性や魅力だと認識する程度に留まっていたり、あるいは、相違から矛盾や差別を発見しても、それを問題と認識し、改善する取り組みがあったりします。しかし、中には大衆を煽動する過激な指導者が登場し、「あいつらと我々は違う!」と攻撃対象の集団を対極に位置付けようとするかもしれません。それでも、そういう主張をする人々が多くの人々の支持を得ていなければ暴力化までは進まないのです。仮に、一部の暴徒がある集団を攻撃したとしても、警察が厳正に対処すれば、これも人々が自衛のためであれ、攻撃のためであれ暴力的手段を採ることを阻止できるはずです。従って、紛争へと至るまでには、何度も対立を制御するチャンスがあるはずなのです。
問題は、このようにして制度的枠組みの中で制御されていた対立がその枠外に出る時には、どのような要因が大きな役割を果たすのかということです。紛争要因を明らかにしようとする試みは、理論研究、事例研究双方から取り組まれてきました。理論研究は、計量分析を行い、紛争地に共通してみられる要因を抽出しようとするもので、現在も欧米の紛争研究では精力的に取り組まれています。しかし、多くの場合、複数の要因が複雑に絡み合っており、特定の要因が決定打になるという理解は今のところ出てきていません。
計量研究では、アクターを取り囲む構造的要因(structural
causes)に特に注目し、どのような政治・経済・社会状況だと紛争が発生しやすいのかを考察しています(ジャングルや天然資源の有無など自然環境も紛争の要因になりますが、ここでは割愛します)*。例えば、体制移行や政権交代などは、アクターの権力関係や彼らを取り巻く制度に大きな変化を生み出し、対立を激化させるといった理解や、国家が十分な公共財を提供できずに貧困や格差が顕在化していると反乱がおきやすいなどといった理解です。言い換えると、これらは国家の統治能力や機能に関する説明変数であるか、反乱勢力の動員力や資源調達に関する説明変数なのです。つまり、上述した紛争を構成するアクターとその関係性に変化を生み出す要因なのです。
しかし、政治・経済・社会環境が変化すれば、すぐに集団は好戦的になるのでしょうか。何か引き金となる事件や出来事があるはずだと事例研究者は考えます。そして、偶発的事件などを除くと、その際に主たる考察の対象となるのが、政治指導者の役割です。つまり、構造的要因で対立が先鋭化したとしても、そのチャンスを活用する政治指導者の役割がなければ大規模紛争へとは発展しないのではないかという理解です*。この引き金要因(Triggering
cause)としての政治指導者の役割は、過度に強調しすぎないように注意は必要ですが、個々の紛争のダイナミズムを見る際には十分役立つものだと言えます。
紛争は良く「勃発した」と言われることがありますね。でも、「急に発生する」という用語で表現するのは、本来適切とは言えないわけです。なぜならば、紛争はプロセスであり、対立の過程で武力紛争へと転化する分水嶺があるはずで、「急にどこからともなく出てきたもの」ではないからです。
2)紛争のアクターは合理的?
さて、上記のように紛争とは、アクターと争点、権力関係によって構成され、特に権力関係が政治・経済・社会変動によって変化し、そこで政治指導者が人々を動員することによって対立が激化し、発生するという理解が形成できたかと思います。でも、なぜエスカレーションを止めることが難しいのでしょうか。仮に対立が先鋭化し、急進的な政治指導者が出てきても、まだ紛争を回避することはできるのではないかという疑問です。
ここで重要な要素が三つあります*。第一に、争っている価値の不可分性です。ここでいう価値というのは、特定の領土のように物質的な価値であることもあれば、政治的・文化的権利のように法制度上担保される権利的価値の場合もあります。紛争の争点は、「領域をめぐる対立」(領域の帰属や法的地位をめぐる対立)か「政府をめぐる対立」(正統な政治的権威の担い手をめぐる対立)に分類されることが多いです(なお、「政策をめぐる対立」を主張する論者もいますが、単に政策的対立で留まっている場合は、紛争にならず、その政策を実現しないなら、「政府を転覆させるか、独立するぞ」――つまり「政府をめぐる対立」か「領域をめぐる対立」――に転化しない限り、対立は既存の制度的枠組みの外へと発展しないでしょう)。いずれにしても、価値が共有・分割できない事態で紛争が発生するということです。逆に言えば、簡単に分け合えたり共有できたりする価値をめぐって人間は、他者を殺害する非合理な暴力的行為を行わないはずだという理解がここにあります。これは、紛争を合理的に捉える立場です。
紛争を合理的に捉えないと、「A民族とB民族は共存できない」とか「〜〜教と・・教は対立を避けることができない」など民族や宗教、イデオロギーを本質主義的なものと捉え、対立の回避を困難として捉えることになってしまいます。かつて、サミュエル・ハンチントンが主張した「文明の衝突論」もこの系譜です*。この議論は、自分たちには分からない民族や文化によって紛争地の人々は対立していると、紛争地をオリエンタリズム的な眼差しで見ている傾向があります。それよりも問題なのは、狂信的な指導者や集団といったアクターの非合理的側面から紛争を説明することで、合理的には理解できないものとして紛争を定式化しがちなところにあります。
紛争を「合理的な私たち」では行わないような「不合理な行為」と捉えると、それ以上の説明は困難になりますが、逆に「合理的なアクターが一見すると、武力紛争という非合理な選択をしたのはなぜか?」と考えると、紛争の要因やプロセスに対する理解も考察することが可能になります。では、合理的なアクターであったのならば、仮に容易には分割・共有できない価値であっても、なぜ制度的枠組みの中で解決を図らなかったのかという次の疑問も生じます。これに対して、コミットメント問題があったからだという主張が良くなされます。これが第二に重要な要素です。
コミットメント問題とは何でしょうか?例えば、紛争当事者である中央政府と反乱勢力がある価値の取り分をめぐって争っていたとします。この場合、両者が取り分について合意しようとする時に、中央政府側は利益の取り分(α)を決めており、反乱勢力側はその見直しを求めています(後者が得る利益は1-α)。当然、最善の選択は、紛争をせずに利益を分け与えることです。紛争すれば、双方にとって大きな損害(-1)となりますが、利益の取り分を調整できれば、それぞれ一定の利得を得ることができるのです(α,
1-α)。
しかし、相手側が交渉に乗ってくるという前提があるのであれば、中央政府側はより取り分を多く要求したいという誘惑に駆られます。また反乱勢力の側も双方で一度取り分を合意したとしても、中央政府側がこの合意をきちんと履行するのか不信感を抱きます(中央政府の方が軍事力を有しているので、武力紛争になっても勝利する可能性が高いためです)。あるいは、逆に中央政府が反乱勢力に対して合意履行能力を有しているのか(合意を破ろうとする急進派が反乱勢力の中にいないか)と懐疑心を抱くこともあるでしょう(フィアロンという研究者はこれをゲーム理論を用いて定式化しました*)。
この結果として、何となく相手側の求めている利益の取り分を理解しており、そこで合意をすることが紛争を避けるためには不可欠であると分かっていながらも、必要な戦略をとることができなくなってしまいます。つまり、合意可能な(均衡点である)利権配分の理論値(α’)を保証すると信頼性を持って約束することができない(cannot
credibility commit)という状態が生じるのです。これは、「囚人のディレンマ」や「コモンズの悲劇」同様、自らの利益最大化のための行動が全体から見れば、非合理な戦略(紛争の選択)へと帰結するという説明です。
コミットメント問題は、そもそも相手側の利得や戦略について当事者は相互に認知しているという前提を想定していますが、現実には相手側の能力、戦略、選好、利得等に関する情報が不足していることも良くあります。このような情報の不在(不完備情報)によって、本来は避けることができた「悪手」(対立を激化させる戦略)を採用してしまうかもしれません。従って、紛争当事者間で十分なコミュニケーションが取れず、相手側の情報が得られない状況が紛争をエスカレーションさせる一つの要因になり得るのです。こうした情報の不在が第三に重要な要素です。
3)紛争への介入の必要性?
仮に双方ともに「こんなはずではなかった」と思いつつ、紛争へと突入してしまったとしても、そう簡単に紛争を終了することはできません。なぜならば、紛争を始めた以上、争点に関する自分たちの望む結果を得るまで、紛争を止めることは困難になるからです。しかし、紛争を継続する限り、ヒト・モノ・カネの投入コストは次第に膨らんでいきます。それでも紛争によって親族を失った人々は、十分な戦果が得られなければ、「自分の息子は何のために死んだのだ」と不満を抱きますし、結果として、政治指導者も求心力を失ってしまいます。このようになると余計に「十分な戦果を得るまでは紛争をやめられない」と考え、泥沼にはまってしまうのです。
このように当事者だけでは、一度発生してしまった紛争の解決は非常に困難になるという理解が一般的です。勿論、当事者間で停戦や和平合意に至る事例も多数あるのですが、その合意を履行する上で、またコミットメント問題に直面するという議論です。したがって、和平合意によって紛争を終結させるというのは難しいことなのです。例えば、内戦のうち、停戦や交渉によって終了したのは、全体の1/4程度だという研究もあります。だから、外部主体による紛争への介入は必要だという議論が出てくるわけです。特に、相互に武器を手放さない状況下で安心や安全を供与するためにはPKFなどの武力を伴った介入が必要だと指摘されます。確かに、紛争後に平和維持部隊が展開した方が紛争の再発防止につながるという計量研究もあります*。
実は、国際関係論では、この武力を伴う介入についての研究は非常に精力的に取り組まれてきました。しかし、この政策は、単に当事者間が和平合意を締結し、その後、PKOを展開するなどといったものだけではありません。むしろ、紛争の被害を最小化する為、あるいは現に生じている人道的危機(虐殺)を防ぐ為、または当事者が話し合いに積極的に応じるようにする為、強制力を行使するという政策の研究です。軍事力という威嚇を通して、紛争そのものやその被害を停止させようとする試みは、例えばNATO(北大西洋条約機構)軍によるコソヴォ空爆(セルビア軍への攻撃)、リビア空爆などアメリカが行ってきたことでもあります。従って、アメリカの軍事戦略としての紛争への武力介入はかなり研究されています。最初に話したPKOやPKFは、原則として当事国の承諾を受けて平和維持部隊を派遣するものですが、「人道的介入」や「保護する責任」と主張される武力介入の中には当事国の同意がないものも多数あります。しかし、当事国が主権国家として破綻しており、これが人道的危機を生み出しているという考えによって、介入を正当化しようとする議論もありました。つまり、仮に少数派であろうと、自国民を保護する能力も意志もなく、虐殺に加担している国家であれば、それはもはや国家とは言い難いという議論です。国家が自国民を保護する責任を担えない以上、国際社会がその役割を代替するべきであるという考えです。
しかし、この軍事介入、そもそも紛争の終結という点では効果が薄いという研究成果も出ています。また規範的主張(「人道的危機を防ぐ」などとの主張)をしておきながら、実際には特定の指導者や政治体制の変革や転覆を目的として行われているケースもあります。この場合、軍事介入を行う側が政府軍、もしくは反乱勢力のいずれか一方に事実上肩入れをし、軍事的支援を行うという意味合いが強くなります。当然のことながら、このような介入は紛争当事者間の権力関係に変化を生み出し、権力の真空化を生じさせます。その結果として、むしろ紛争が激化・泥沼化した上、介入者も紛争当事者となってしまうケースが多々見られます。そして、一度介入してしまうと、撤退という戦略をめぐってアメリカは迷走し、ディレンマに直面しているのだという主張もあります。
ここで、改めて考えたいのが、武力を伴わない関与、つまり和平の仲介等が持つ意味です。一般的には、強制力の伴わない仲介や和平の提案は紛争当事者に受け入れられない(=意味のない政策だ)と考えられがちです。確かに、和平合意で終了している紛争は少ないこともその証左かもしれません。他方で、先に挙げた価値の不可分性、情報の不在、コミットメント問題などで紛争が生じているのだとしたら、そして当事者間だけではこの問題を回避することが困難なのだとすれば、理論的には、中立的な第三者による仲介は、これらの問題を克服するために必要不可欠であるはずです。つまり、当事者が絶対に分割・共有できないと考えている価値を配分する方法を提案し、相互不信を回避するために双方に情報を提供し、合意の履行(コミットメント)を保証する役割を担うということです。これは、まさに外交的な介入、つまり交渉の仲介になるわけです。
このように、差し当たり机上の議論としては、外交的な介入も成功する可能性があると考えてもらったとして、では、どのような条件が整えば、これは実現するのでしょうか。実は、これまで軍事的な介入に関心が集中していたため、外交的な介入に関する研究は比較的少数でした。ところが2000年代に入り、内戦の交渉による解決を促進する研究が取り組まれ、一定の成果が出てきました。以下で、このような議論の内容とその課題を考えてみたいと思います。
4)外交的な介入の成否の条件?
国際社会の紛争地への仲介が成功するためには、当事者が受入可能な和平案を提示して、これを受け入れるように圧力をかけたり、支援をしたりすれば良いのではないだろうかと思いませんか。これは正論です。ですが、そもそも最善の解決策を外部の仲介者はどうやって把握するのでしょうか。実際は、仲介者の側も最初から答えを持ち合わせているわけではありません。関与や仲介を重ねる中で仲介者の側も、そして当事者同士も自分たちが受け入れ(妥協)可能な解決策を認識するからです。この意味で、紛争当事者の紛争に対する解決策に対する選好や利得を「点」で捉える見方は適切ではなく、むしろ「幅」や「範囲」で捉えるべきだと私は考えます。すると、仲介は1回や2回ではなく、継続的に行われるコミュニケーションの場として機能することで、この妥協の「範囲」を当事者間で調整する役割を果たすのです。
では、どのような条件が仲介を成功に導くのでしょうか。この要素として、仲介者と紛争当事者の間の権力関係、交渉の中立性、仲介者のコミットする能力や意志、仲介の時期の5つが重要だという議論があります*。仲介者と紛争当事者の権力関係は、紛争当事者の一方が合意内容を履行しない時に仲介者が何らかの脅しや制裁を加えたり、逆に合意の履行に協力した場合にその見返りを提供できたりするようなアクターでなければ、仲介の機能を果たせないということを意味します。つまり、仲介者が紛争当事者よりもパワーが大きく劣っている場合には、上記のような役割を果たすことは困難ですので、交渉の仲介は成功しにくいという議論です。しかし、現在の国際社会では、地域的国際機構を通しての仲介もあり、この権力関係は大きく問題にならないと思われがちです。ただ、権力関係はそれでも重要な要素で、例えばロシアの内戦(チェチェン紛争)や中国の国内問題(ウイグルやチベット)に関しては、残念ながら、この権力関係の観点から交渉の仲介を当事者が拒否することができてしまいます。
さて、次に交渉の中立性ですが、これに関しては興味深い議論があります。通常、仲介者が一方に肩入れしていれば、当然、交渉は破綻すると考えがちです。しかし、内戦の場合、現状維持を求める政府側は現状変更を求めている反政府側に強く反発しており、仲介者が国内問題に関与してくることにも強い警戒感を持ちます。当事国として内政問題に対する国際的関与(仲介)を承諾するか否かを決めるのは、反政府側(非国家主体)ではなく、政府側(国家主体側)です。従って、仲介の中立性は留意しつつも、交渉の前提として当該国の領土的一体性を尊重するなどと、当該政府に配慮した政治姿勢を仲介者が表明することで、政府側は仲介を受け入れやすくなると言われています。やや逆説的ですが、仲介においては政府側に一定の配慮をするべしという議論です。
では、仲介者が交渉にコミットする能力と意志とは何でしょうか。先ほど述べたように交渉とは繰り返しのゲームです。何度も交渉を重ねることによって、相手側の要求を認識し、自らの要求も再確認します。一度きりの仲介や、途中で投げ出されてしまうような仲介に紛争当事者が関わりたくないと考えるのは当然のことです。従って、仲介者は、この交渉に関与し続ける能力を有しており、その意志を表明する必要があります。これは、仲介や交渉プロセスを制度化してしまうというのが一番分かりやすいと思います。あるいは、複数の有力国で共同議長国体制などを作り、常設の交渉チャンネルを整備するなどというものです。
最後に仲介の時期ですが、これは紛争のプロセスを思い出してもらうと分かりやすいと思います。つまり、紛争が最も大きな被害を出すのは、エスカレートし、軍事衝突に至る時です。より厳密には武力紛争そのものにもダイナミクスはあり、激化・鎮静化などの変化や、同じ状態を維持する長期化・泥沼化といった状態があります。こうした状態の間を行き来しつつ、紛争は展開されるのですが、エスカレートする前とデスカレートする時に仲介すれば、交渉は成功しやすいと考えられています。つまり、双方ともに大きな被害を生み出すことを予期している段階か、逆に大きな犠牲を被った後であれば、交渉の必要性を紛争当事者も認識しているだろうという理解です。仲介者は、こういった紛争のダイナミクスを丁寧に観察しておいて、適切な時期に即座に仲介を申し出ることができるかどうかが重要だということです。
今まで取り上げてきたのは、基本的に仲介者側がどうするべきかという話(仲介者側の変数)ですが、これさえ準備すれば、交渉の仲介は成功するのでしょうか。私は必ずしもそうは考えません。紛争当事者側の変数にも注目する必要があると考えます。そもそも、和平が破綻するケースは、和平合意を締結した当事者は合意を守る必要性を理解していながらも、これを守らない過激派などのアクターが双方内部に存在し、彼らが紛争の継続を主張するケースにおいて発生します。こういった合意を勝手に破ってしまう内部アクターのことを「スポイラー」(spoiler:取り組みを台無しにする者)と言います。「スポイラー」の存在は、紛争当事者の一方の中で和平か紛争の継続かをめぐって内部対立が存在し、採るべき戦略やそこで得られる利得に関する共通の見解がないことを示しています。
実は、冒頭に挙げた紛争の特徴の一つ、コミットメント問題も、このような内部アクターの存在、つまり理論研究者が一枚岩的だと想定していた紛争当事者が、むしろ一枚岩でなかったから生じている問題なのです。相手側が合意にコミットするか信頼できないという状態が生じるのは、相手側が実はバラバラの見解を持っている集団の寄せ集めであり、誰も合意を守ってくれなさそうであるから信頼できないという話です。紛争当事者が実は一元的なアクターでないため、停戦や和平合意が守られないといった例は、アフガニスタンやウクライナ、シリアなど世界各地の紛争で見られます。つまり、交渉への仲介を成功させるためには、このような紛争当事者内部の動向も把握し、政策的対応をしていく必要があるのです。例えば、過激派を支援している国に支援を止めるよう求めたり、過激派の指導者に彼らの要求を押し通せば和平が破綻し、結果としてその責任は彼らに及ぶことなどを理解させたりする必要性が生じます。
おわりに
武力紛争への政策的対応は、内戦やテロなどが世界各地で発生する現在強く求められていますが、当然のことながら確立された処方箋はなく、国際社会も各国もその都度、暗中模索しながら進めている印象を受けます。しかし、紛争のメカニズムを理解し、そのダイナミクスを制御する試みを進めていけば、紛争への政策的対応もより効果的なものに変化すると考えます。紛争をプロセスとして理解すると、紛争のリスクそのものを除去することは、残念ながら難しいという理解に繋がるかもしれません。世界には、あまりにも無数の対立軸が存在し、そして現に武力紛争は多数発生しているからです。しかし、予防が困難かもしれないと理解することは、逆に発生した紛争といかに向き合うのかという課題を直視することにもつながります。
その意味で、最後に皆さんに強調しておきたいのは、学ぶことによって、むしろ「できないこと」を突きつけられる学問の意味です。皆さんはこうした場面に直面すると落胆したり、学ぶ意味に疑問を感じたりするかもしれません。しかし、「現実を知り、「できること」を考える」という意味において、そのような学問も極めて重要だということです。紛争に対する政策的対応もまさにこのようなものであるからこそ、政策学部の学生の皆さんが学び、探究する必要のある問題だと思っています。
【付記】小論は、野村財団2020年度研究助成(社会科学)に採択された研究(「紛争のエスカレーション防止における非軍事関与の効果に関する学際的研究」)の一部です。
参考文献(出所順)
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