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「小国」の政治
投稿者 月村 太郎:2025年8月1日
日本では、米国や中国、EUやロシア、朝鮮半島など、国際的に強大な影響力を誇ったり、距離的に近かったりする近い国家や地域に関する情報があふれています。こうした現象は、多くの諸国でも見られることですが、米国や英国の報道に接してみると、日本の報道が如何に国内偏重であるかに気づかされます。ましてや「小国」関連の情報などには、ほとんど触れることがありません。そこで今回は、EXPO2025の「ナショナルデー」の公式行事に招待されたことを口実に、モンテネグロとコソヴォについて少し紹介してみましょう。日本外務省のHPによれば、モンテネグロの人口は約62万人、面積は13,812㎢(福島県とほぼ同じ)、コソヴォの人口は約160万人、面積は10,908㎢(岐阜県とほぼ同じ)、いずれも正真正銘の「小国」です。
両国は、いずれもユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(以下、SFRJ)の一部でした。1991年から92年にかけて、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア(現在は北マケドニア)が、時に激しい内戦を経て、時に平和的に、SFRJから次々と分離独立し、SFRJに残ったセルビアとモンテネグロはユーゴスラヴィア連邦共和国(以下、FRJ)を1992年に建国しました。その間のコソヴォは、セルビア国内で特殊な自治を与えられていました。
共にFRJを構成していたセルビアとモンテネグロの間には人口で15倍、経済力ではそれ以上の差がありました。また、1990年代のセルビアの政治指導者であったミロシェヴィッチは、西側から悪名高き政治家と名指しされており、セルビアは各種制裁の標的としてやり玉に挙げられていました。ところが、国際社会の一員としての国家が、セルビアではなくFRJである為に、制裁の対象はセルビアではなくFRJでした。制裁の巻き添えを食ったモンテネグロは、多大な経済的悪影響を受けてきました。モンテネグロの国政を長らく牛耳っていたジュカノヴィッチは、常にセルビア離れに努め、単一の国家であったFRJはセルビアとモンテネグロの二国から構成される国家連合へと2003年に改編され、更にモンテネグロは2006年に念願の独立を果たしました。NATOにも加盟し、EU加盟交渉も進んでいます。ところが、長い支配体制の故に、ジュカノヴィッチの周囲には汚職など政治腐敗の噂が絶えず、彼は2023年に政治の表舞台から去りました。政界一新の立役者のひとりは、1987年生まれのスパイッチ首相です。彼は埼玉大学経済学部を卒業しており、公式行事や日本のワイドショーでも日本語を話していましたし、石破首相とも日本語で会話していました。
セルビア領の一部であったコソヴォでは、独立の際に激しい内戦が展開されました。1999年のNATOの本格空爆により、セルビアはコソヴォの独立を事実上認めざるを得ず、コソヴォは国連暫定統治期間を経て、2008年に独立を果たしました。しかし、コソヴォはセルビアと国交を持たず、セルビアを支援するロシアの反対により、国連にも加盟できていません。コソヴォでも政界一新が起きました。それまでの政治指導は内戦時の元部隊司令官に掌握されてきました。彼らには内戦に関わる各種犯罪の嫌疑がかけられ、その為に彼らは首相や大統領の職を辞して、しばしばハーグの国際法廷に立たされることになりました。コソヴォ市民の間では内戦とは無縁の政治を求める動きが強まってきました。2021年からはクルティ首相が国政の中心にいます。彼は、反政府運動の故に、内戦時には投獄されていた人物でした。EXPO2025には、クルティの同僚のオスマニ大統領が来日していました。彼女も1982年生まれ、非常に若い政治家です。
我々ひとりひとりに独自の人生があるように、当たり前のことですが、どんな「小国」にも独自の政治があり、そこで暮らしている人々がいます。日本語を話す首相がいるモンテネグロと同じく、内戦後の復興に多くの支援が日本からなされたコソヴォも、非常に親日的です。ヨーロッパの「大国」に行く際には、もうワン・フライトをつないで、「小国」の見知らぬ世界に触れることを、特に若い皆さんにはお勧めしておきます。
参考文献:月村太郎『バルカンの政治』(東京大学出版会、2023年)