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政策最新キーワード『行動経済学の使い方』

行動経済学の使い方

2025川上先生 (110074)

投稿者 川上 敏和:2025年4月1日


 2024年のアメリカ大統領選挙はトランプ氏がハリス氏に対して勝利を収め、返咲きを果たした。選挙後の分析によると、勝敗を分けた要因として真っ先に挙げられるのがインフレ対策である。アメリカではインフレが深刻で、バイデン氏の後継者であるハリス氏では経済政策が心許ないという評価を多くの有権者が下したとのことである。
 けれどもこの判断は誤りである。コロナ後のインフレの原因は、各国がコロナ禍という非常事態において、経済を支えるために財政出動と金融緩和により市中にお金を大量供給したことに起因する。アメリカでこの役割を果たしたのは一期目のトランプ政権である。このことをもってトランプ氏の政策対応が悪かったという積りはない。他の諸国も似たような政策を実施した。インフレはいわば政策の副作用として世界全体で進行したからである。
 バイデン氏が大統領に就任したのは、ちょうどインフレが顕在化し始めた頃にあたる。そしてタイミング的にインフレの火消し役を担うことになった。インフレは一旦始まると経済システム自体の自律性により継続する。既に見たように市中に過剰なお金の供給があることによりインフレは発生する。その抑制は金利の引き上げなどによりお金を市中から引き揚げさせることが基本である。ただし、インフレを抑え込むのは簡単なことではなく、インフレ抑制政策は「闘い」という言葉で形容されることがしばしばである。
 データを追いかけると、アメリカにおいて火消しは成功したことが分かる。一時は9%にも昇った消費者物価指数は3%程度に落ち着き始めている。つまり、インフレを起こしたのはトランプ政権であり、それを収めたのがバイデン政権ということをデータは示している。しかしながら、アメリカの有権者はインフレが加速する前のトランプ時代の方が、インフレが加速し、猛威を振るったバイデン時代に比べて、生活は楽だったという実感を持っており、この実感をそのまま評価に結び付け、投票した訳である。
 アメリカの有権者たちが犯した評価の誤りは認知バイアスに基づくものである。人間はパッと見てわかりやすいことの方に目が向いてしまう。また直面する問題をいちいち綿密に考察して対処する訳ではない。間に合わせの推論を用いておおざっぱな答えを出して済ます。この近道的手段を行動経済学ではヒューリスティックスと呼ぶ。行動経済学の創始者であるカーネマンとトヴェルスキーの重要な業績の1つは、このヒューリスティックスがしばしば誤りを生み出すということを指摘したことである。ヒューリスティックスの中に利用可能性ヒューリステックと呼ばれるものがある。何かの決定をする際に、思い浮かびやすく、簡単に思いつく情報を使用しがちな傾向を指す。アメリカ大統領選挙における有権者の判断はその典型例と言え、世界の行く末に大きな影響を及ぼすような決定に繋がったのである。
 経済というシステムは複雑なので、政策の直接的な効果だけを見ていると誤る。直接的な効果より間接的な効果の方が大きくなることがしばしばである。さらに政策の効果が表れるにはラグがある。間接効果は時間が経ってから現れることが普通なので厄介である。アメリカのインフレにもこの点は見て取れる。トランプ氏の行った拡張的財政・金融政策は直接的にはコロナ禍での経済が下振れするのを防いだ。その一方で間接的にはインフレを引き起こし、その顕在化はラグを伴っているため、バイデン氏の失策と有権者には映ったのである。
 上記の例は認知バイアスについて心得ておくことの重要性を示している。近年、経済学者は人間の心理的側面にますます注意を向けるようになってきた。ひところのブームのような状況は過ぎ去ったように見える一方で、行動経済学は様々な研究領域の基礎部分に常識として位置を占めるようになってきた印象を受ける。経済学の入門教育においても行動経済学を素通りするわけにはいかなくなってきたし、学生さんの側も興味を持たれる方が多い。最近は、高校の授業でも取り上げられることがままあるようである。
 けれども上記のインフレの例を解釈するには、伝統的な経済学の知見も不可欠であることも分かる。例えば、インフレがお金の供給過多から発生しやすく、一旦始まると継続し、インフレ抑制には金利を上げることが基本となるといったことである。つまり認知バイアスについて知っておくだけでは片手落ちなのである。バイアスとはズレのことであるが、どこからどうズレているのかが分からなければ役に立たない。この点についてはカーネマン自身がノーベル賞受賞記念の論文において言及していることでもある。従って、行動経済学は単体では最強の学問とは言えないのである。むしろ様々なものと組み合わせることによって威力を発揮し、多彩な果実を実らせる。そういう意味では学際的な学びを標榜するわが政策学部にフィットする学問分野と言えるのかも知れない。何と組み合わせるか、それは皆さんのセンスの使いどころと言えよう。
 最後に余計なことを書いて筆をおくことにしたい。昨年の大統領選挙前、アメリカの経済学者の多数はトランプ氏の経済政策に懸念を表明していた。実は、それは伝統的な経済学の知見に照らせば常識的な判断ばかりである。専門家も人間である以上、認知バイアスの罠から逃れていると言うことはできないが、少なくとも自身の専門に関する事柄についてはヒューリスティックスに頼らず、合理的な見解を示そうとするだろう。それが専門家の専門家たる所以だからである。我々が採用している民主的な社会運営は、出来るだけ分権的に判断をする仕組みを維持するのが大事である。持ち場に最も近い人間がその場について最も多くの情報を得ており、より正確な判断を下せるからである。専門家の判断を尊重することもそれに当たる。ところが近年専門家軽視の風潮が世界的に広まっている。昨年のアメリカ大統領選挙もその風潮が影響した結果と見ることもできる。この原稿を書いているのは2025年3月末であるが、既にアメリカではインフレ再燃懸念が高まり、トランプ氏の経済政策に過半数以上の有権者が不満を抱き始めているとのことである。専門家を侮ることは高く付くのである。