このページの本文へ移動
ページの先頭です
以下、ナビゲーションになります
以下、本文になります

政策最新キーワード

リスク評価とリスク認識

投稿者 風間 規男:2022年6月1日

投稿者 風間 規男:2022年6月1日

 私たちは、人生において、常に不測の事態に見舞われる危険と隣り合わせの生活を送っています。失業するかもしれない。生活に困窮するかもしれない。被災するかもしれない。高齢で動けなくなり介護が必要になるかもしれない。そういった心配事をたくさん抱えて生活しています。
 政治学者として、常々「国家とは何か?」を考えてきましたが、1つの答えは、国家は、個人が直面するリスクを管理する存在だということです。国家にリスクを引き受けてもらうことで、私たちは安心して日々の生活を送ることができます。もちろん、国家はそれ以外にも様々な機能を果たしているのですが、福祉国家は、「ゆりかごから墓場まで」国民が直面するリスクに手厚く対応することで、社会全体のリスクを管理しているといえます。
それでは、福祉国家における政策が対象とする「リスク」はどのように把握されているのでしょうか? 通常、リスクの大きさは、損害予想額×発生確率で計算されます。想定されるリスクが現実化したら、どのくらいの被害が生まれるのか。そのリスクは、どのくらいの確率で現実化するのか。この2つの要素を掛け合わせて、リスクは把握されます。国防、環境保全、食品安全、感染症予防、原子力防災などの政策は、そのようなリスクの計算、リスク評価に基づいて立案されます。
 このようなリスク評価には、高度な専門知識が必要とされます。国防のリスクを評価するには、軍備に関する知識や潜在敵国に関する正確な情報と分析が不可欠です。感染症対策には、高度な医学的知識が必須です。政策決定において高いレベルの専門知識が求められるにつれて、政治家よりも科学者や官僚が優位に立つ場面が多くなります。正確なリスク計算に基づく合理的な政策決定を科学者や官僚が主導するようになってきました。
 しかし、原子力技術や遺伝子科学などの出現は、この状況を一変させました。これらの先端技術に関して、もしも誤ったリスク評価に基づいて政策が決定されると、社会全体を破壊しかねない致命的な被害が引き起こされることになります。ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、そのような取り返しのつかないリスクに直面している社会を「リスク社会」と呼んでいます。リスク社会が相手にしているリスクは、従来のものとは本質的に異なっていて、福祉国家のもとで行われてきたリスク評価の手法が通用しなくなると主張しています。
 たとえば、リスク社会では、発生確率に関する科学者たちの見積もりに疑念がもたれます。専門家は、発生確率を低く見積もる傾向にあります。ある著名な原子力科学者は、原子力発電所が事故を起こす確率は、道を歩いていて隕石に当たるよりも低いと主張しました。ところが、その後、人類は、スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島と、すでに3つの致命的な過酷事故を経験しています。このように最先端技術が社会にもたらすダメージの大きさと発生確率は、科学者にも予測不能なのであって、科学者の間でもリスクについての評価が大きく異なってしまうのです。
 では、一般市民のリスク認識はどうでしょうか? 通常、市民のリスク認識は、専門家のリスク認識よりも高いと言われています。一般市民は心配性で感情に支配されているからそうなるのであって、非合理的だと科学者たちは切り捨てようとしますが、私の見解は異なります。科学者がきちんとリスク計算を行うことができない状況の中   では、市民の純粋な直感に基づくリスク認識の方が信頼できると思っています。
 遺伝子科学や原子力技術といったリスク評価が難しい問題については、市民の側がリスクをめぐる直感力を研ぎ澄ませ、将来世代に負の遺産を残すような取り返しのつかない事態を招かないように、「安全だと証明されていないものは受け入れない」という姿勢を貫くことが大切だと思います。