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「社会的共通資本」のすすめ

投稿者 川上 敏和:2022年4月1日

投稿者 川上 敏和:2022年4月1日

 気候変動問題と相まって、社会の持続可能性に対する関心が高まっています。国連が主導するSDGsは「持続可能な開発目標」を意味し、「世界から貧困をなくすこと」と「現代の持続不能な社会経済や環境を持続可能なものに変革すること」を2本の柱としています。このまま世界を続けることはできないので早急に変えましょうというのがSDGsの主要なメッセージのうちの1つです。
 このようなメッセージが発せられる理由は、言うまでもなく人間の活動が地球の許容範囲を超えてしまったからです。なぜそこまでいってしまったのか。経済学を専門とする立場からすると、現代の経済運営方法に原因の1つがあるように思います。多くの国では混合経済あるいは市場経済とよばれる仕組みが採用されています。市場と政府が役割分担をして経済の運営にあたるやり方です。市場は、条件さえ整えば、資源配分に優れた機能を発揮することが分かっています。そして現状、世界の多くの国の経済運営は市場に随分偏った混合経済で行われています。けれども市場は万能ではありません。できることとできないことがあります。気候変動問題は市場が得意ではない例に当たります。市場が失敗する際には、政府が役割を負うことになっているのですが、一般的に言って政府は市場ほど信頼できるものではありません。
 持続可能な形に社会を変革するために様々な提言がなされています。SDGsもその1つです。そういった提言の中で、日本の経済学者である宇沢弘文先生が提唱された「社会的共通資本」という考え方がオルタナティブ(代替案)として見直されつつあります。社会的共通資本は1つの思想と言ってよく、簡単に説明するのは難しいですが、宇沢先生の説明をそのまま使わせて頂くと、「社会のすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に継続することを可能とするような社会装置のこと」がその定義になります。自然環境に加えて、インフラや社会の制度などを社会的共通資本と捉え、これまでとは異なる方法で、それらを運営、管理をしていこうと考えます。具体例としては、既に書きました自然環境に加えて、社会の制度にあたるものとして、農村、教育、医療などはわかりやすいと思われます。
 持続可能性との関連において、社会的共通資本の考え方で注目すべき点をここでは2つ挙げておきたいと思います。1つ目は、経済活動を市場との関わりだけで考えるのでなく、営み全体に目を配ろうと提案をしていることです。例を使って説明します。市場経済においては、農業は市場との接点で評価がされがちです。つまり作った作物が市場でどう評価されるかに目が行きます。結果、高値で売れる作物を作ることが目標になり、安くでしか売れず採算の取れない作物は止めてしまえとなります。実際、コロナ禍で外食産業が打撃を受けた影響で、米の需要は減り、価格も大きく下落しています。米作農家は大きな赤字に苦しんでいて、行政は減反や転作を奨励しています。
しかし農村が社会的共通資本だという視点で考えてみましょう。農という営みは、農作物を作って市場で売るというだけの存在ではなくなります。農林水産省作成の以下のページをご覧下さい。
https://www.maff.go.jp/j/wpaper/w_maff/h24_h/trend/part1/chap4/c4_2_01.html
この図を見て頂ければ、農村の営みは私たちが普段イメージしているより遥かに広範囲で多岐に渉ります。持続可能性や環境問題の文脈においては、地球環境保全、生物多様性保全といった自然環境保護の機能を果たしているということは重要な点です。つまり、農村という社会的共通資本は、自然環境という社会的共通資本の管理、運営に深く関わっているのです。すると高くで売れない作物しか作れないなら止めてしまえという答えは簡単に出せなくなります。
 2つ目は、社会的共通資本の管理、運営は、市場や政府に委ねるのではなく、独立した専門的な職業集団に任せて、彼らの職業倫理に託そうという提案です。専門的な職業集団というのは職人と読み替えれば分かりやすいのではないかと私は考えています。農村において、農家の人々は職人集団です。彼らは市場で得る利益にも配慮する一方で、自然環境と付き合いながら先人たちから受け継いできた知恵、伝統や文化、つまり職業倫理・文化に基づいて農を営んでいます。このような職人集団は見渡せば私たちの周囲にたくさん存在します。医療における、お医者さん、看護師さんは職人であり、独自の職業倫理や文化を持っています。学校の先生も実は職人的色彩が強いです。そもそも何世代か遡れば日本人の多くは第1次産業従事者でしたから、その当時は大多数が職人集団に属していたと言え、職人として生きて行くことは難しいことではありません。職人文化においては、先行世代から受け継いだものを後の世代に伝えることが大きな柱です。つまり、社会を「持続的、安定的に継続することを可能とする」ための重要な要素である社会的共通資本の管理、運営を職人集団に任せることによって、持続可能に社会を運営していくという目標も同時に社会に組み込まれることになるのです。
 その一方で課題もあります。社会的共通資本の管理、運営を専門集団に託すことについて、私たちが社会的な合意を形成できるかという点です。宇沢先生の表現をお借りすると「社会的共通資本の管理、運営はフィデュシアリー(fiduciary)の原則に基づいて、信託されなければ」なりません。フィデュシアリーの原則は、社会的共通資本の肝です。ところが現代の社会では、人が人を信頼する能力は弱まっています。その結果、お金への依存が増し、ますます皆が市場を頼りにする方向に向かってしまうという悪循環に陥っているように思えます。フィデュシアリー(信託)という言葉は単なる信頼より強い内容を要求する言葉です。「フィデュシアリーの原則」が社会全体の規範として定着するか、そのように多くの人が考え方を修正できるか、これが社会的共通資本という構想を社会に定着させる際に超えなければならない壁です。まずは周知し啓蒙するところから始めなければなりません。相当高いハードルだと思います。
気候変動問題に対する貢献でノーベル経済学賞を受賞したウィリアム・ノードハウスは、問題解決のためには啓蒙活動が大事であり、それに苦労したエピソードを自著で語っておられます。既に書きましたように持続可能性問題についても啓蒙活動は大事です。かつて福沢諭吉は『学問のすすめ』において、「帝国主義列強の侵略という危機に備えるためには、これまでの考え方は通用しない。だから、みんなで意識を変えようよ」という呼びかけを行ないました。つまり啓蒙活動です。この呼びかけに多くの人が応じたことが、明治期日本躍進の原動力になりました。今回も似ています。持続可能性危機に際して、人々がこれまでとは意識を変える必要がある。そのためにはなるべく多くの人に持続可能性問題ならびに社会的共通資本の考え方を知ってもらいたいと思います。
実のところ、かく言う私も社会的共通資本の意義についてつい最近気付いたばかりです。ですからまだまだ若輩です。同志社には宇沢先生ご存命中に自らが主宰となり社会的共通資本研究センターが開設され、研究が進められていたという縁もあります。にもかかわらず、その重要性に最近まで気づかなかったという迂闊について、私は恥入るばかりですが、縁は意外と大事です。それに人は気が付いたところから始めるしかありません。できるだけ多くの学生の皆さんと一緒に社会的共通資本について学んでいければと今は願っています。