同志社大学 政策学部

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自治意識

投稿者 野田 遊:2018年9月1日

投稿者 野田 遊:2018年9月1日
 「公」とは「人々(Public)」のことです。市における「公」が頭につくもの(市の公園、公民館、公共交通、公共事業など)はほとんど市民のためのものです。市の公共サービスは市民のためのものであり、管理する主体は自分たち市民です。このため、管理主体としてのわたしたちは、市町村、府県、国への自治意識をもつ必要があります。自治意識とは、自分が管理する強い思いです。オーナーシップ(ownership)でもよいと思います。

 地域の美化活動、火の用心といってまわる防災活動など、地域で、自分たちでできることは自分たちで行えばよいのですが、自分たちだけで整備するにはあまりに非効率なものがあります。たとえば自分たちだけで、水道施設やごみ焼却場を整備できませんし小学校を建設し教員を雇い教育を提供するのも難しいです。このため、市民みんなの税金をプールして、それをもとに政策を行う権限を政府である市に信託するのです。このとき、市民が「主」であり、市長や市の議員・公務員は「従」の関係にあります。
 民間企業のサービスは売る人と買う人は異なりますが、公共サービスは需給主体が最終的には一致します(飯尾2004)。水道施設でいえば、市民が税金と需要をもとに、浄水や給水、貯水、配水等を政府に信託し、政府がそれらを市民のために行います(具体的な工事は民間企業に発注します)。供給主体は、本人である市民が信託した代理人としての市ですが、本人の主体的な意思に基づき供給する意味において需給主体は一致するといえます。京都市の小学校は、親が支払った税金をもとに、市が施設を整備するとともに教員を雇用し、教育を子どもに供給しており、世帯単位で需給主体は一致しています。需給主体が一致するのであれば、市を批判することは、自己批判しているようなものといえます。もちろん、市民のニーズを市の職員や首長、議員の方々が十分にくみ取ってくれているかといえば必ずしもそうとは限りませんし、職員も裁量で事務を進める部分があり、そもそも市民のニーズも一枚岩ではありません。さらに、市民が自分の意見を必ずしも明確にもっているとは限りません。これは市民側の問題であるばかりでなく、公共的問題が複雑すぎるためでもあります。
 市の職員が裁量で公共的問題に対応している現状から、政府への信託はフィクションであると言われることがありますが、そもそも自らが管理していると強く意識しないと、市を批判したところで、制度や慣行の改善や是正を市の職員や首長、議員に任せきりになり、それが妥当な改善かどうかを判断することさえ十分にできなくなります。妥当かどうかの判断は結局市民がする必要があり、自ら管理する強い気持ちをもって、市の制度や政策を理解し、市の会議に参加し、計画について意見を述べ、選挙に行き、場合によっては、市の議員や職員に会って話すことも本来求められることです。
 複雑なことに、わたしたちは、市だけでなく、府県や国にも税金を支払っており、それらの政府を管理する意識もあわせてもつ必要があります。府県は市より心理的に離れた政府で、その政策は市のそれよりいっそう認識が困難であるため、府県民意識はあっても、府県への自治意識は一般にかなり低いと言わざるを得ません。国政に至ってはさらに関係者が大きく広がり、市町村に比べると自治の可能性は実際には困難を極めます。このようなことから、国政で議論される基地や原発の問題は、そこに居住しない人たちに、離れた地域の問題として認識されてしまいます。いずれの問題もわれわれ国民が政策の恩恵を受ける全国民の問題であり、国への自治意識は現状より一層強くもたなければなりません。
 自治意識を強くしたからといって有益な解はそう簡単には見つかりませんが、問題や政策を深く認識すれば、実情を知り、問題の本質を発見し、限られた資源の中で、とるべき選択肢が必ずしも明確ではないこと、その結果、政府は常に難しい判断を迫られていることを知ります。さらに他者との間で妥協するという民主主義の実践を学ぶと思います。自治意識は「自分」だけでなく、「自分たち」であるところが肝心です。そして、政策の決定は往々にして難しい判断であるため、環境変化にともない絶えず政策を再考していくことが不可欠です。こうして、絶えず問題や政策を深く検討するためには、自分たちが政府を管理しようとする強い思いが前提になるのです。人口減少が加速し、財政難が深刻化しています。政府への批判は一旦おいておき、わたしたちは自治意識を強くもち、自分たちが信託する政府としての市町村、府県、国そのもののあり方について、本気で考える時期にきています。


参考文献
飯尾要. 2004.「公共性とはなにか:公共性の本質と二つの『公』」和歌山大学『経済理論』320号、23-44ページ.