同志社大学 政策学部

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地球を犠牲にすれば宇宙が救える?!

投稿者 山谷 清秀:2017年11月1日

投稿者 山谷 清秀:2017年9月1日
 「宇宙を救うためには、地球を犠牲にするしかない。どちらを取るべきかは誰でもわかるだろう?!」
 スーパー戦隊なんかでよく耳にする対立である。多数の幸福のためには少数の犠牲はやむを得ないという提案である。主人公たちはそこで争うが、結局はすばらしい作戦を思いついたり、新しい合体ができて全部救えるのが物語である。しかし重要なのはそこではなく、ここに込められたメッセージである。これを観た子どもたち(大人も?)は、「少数の犠牲の上に成り立つ多数の幸福だなんておかしくないか?!」と思うはずである。
 ポケモンのアニメでも、たまにこんなのがある。つい最近も、ミミッキュの特異な価値を認めるムサシがTwitterで爆発的に称賛されていたのはご存じであろう。子ども向けに作られた番組でも、メッセージとして重要な価値が秘められているものだなぁと思う。
 ところで、ディストピア小説の金字塔、ジョージ・オーウェルの『1984』が本屋で平積みされているのを近頃よく見かける。世界的に復活ヒットしているという。オクスフォード英語辞典によって"post-truth"が2016年の言葉として選ばれたように、物語のなかの「真理省(現在の政府の都合で過去の記録を改編する機関)」で行われていることが現実でも起きているのではないかという人びとの疑念を反映しているのかもしれない。
 他方で、新書や新刊のコーナーへ行くと、「美しい国・日本」を讃え、近隣諸国を罵倒する本が大量に平積みされている。意外と売れているらしい。いったいどのような人がそれに関心を持ち、手に取り、読みふけっているのだろうと考える。

 近年の日本における政治、とりわけポスト55年体制以降は、移り気な市民、言い換えれば「フワッとした民意」をいかに捕らえるかが政治家にとって肝要だと言う人もいる。市民の関心は憲法改正や安全保障といったハイポリティクスではなくなったと言われる。では市民が政治家に求めるのは、生活のなかから出てくる具体的な争点の解決なのだろうか。なんだかあんまりそうでもなさそうである。
 近年の地域政党の様子を見ていると、有権者は「新しい」雰囲気や「改革」という言葉を支持しているようにも見える。あるいは既存の議員(政治家)や公務員への不信感から、「議員定数の削減」や「公務員の減給・人員削減」を主張する政党を支持する。このような場合、「社会の悪者(皆の敵)」を仕立て上げ、それをぶった切る手法はかなり好まれる。在特会ですら都知事選でもかなりの票を集めていた。そう考えれば、有権者が、既存の組織に属さず、名の売れた何か新しいことをしてくれそうな人に投票するのか。
 政治はもしかすると、テレビのバラエティと同じで、自分とは関係ないところで演じられているもので、やはり刺激的でおもしろいものが行われているのを観る(あるいは消費する)ものであるという認識なのだろうか。そこでは「何が真実であるのか」は問われない。都民ファーストの会の「個々の議員には取材をさせない」という政治責任から考えればあり得ないことが、「失言を招かないためにも良い手法だ」と評価されたりするのも、こういうところに出発点がある。

 現代はネット社会である。ジャストシステムや労働組合総連合会、総務省がそれぞれ独自に年齢別の情報入手方法について調査を行っている。テレビはどの年代でもかなりたかいが、20代については「SNSで見る」、「スマホでググる」、「まとめサイトを見る」、「ニュースアプリで読む」といった回答が際立って高い。基本的に情報はスマホを通してなのである。
 多くの人がブログで自分の主張を書き、それをTwitter等のSNSで宣伝したり、リツイートをする。ツイート自体に自分の主張を書く人もいる。
 情報は、無料で、短く、単純で、わかりやすく、目を引くものが好まれるだろう。ただし、そこに真実を問う機会は個々人の目以外にない。他人の痛みを知る機会もない。いま自身が感じている問題の原因が何なのかを探索する作業さえ行われない。そこでは議論と言えない言葉や罵り合いで溢れ、右とか左とか、保守とかリベラルといった言葉で単純なカテゴライズがされる。「大阪都構想に賛成か反対か」、「憲法改正に賛成か反対か」、「豊洲と築地どっちであるべきか」のような単純で無意味な、むしろ害悪な分断が行われる。
 ここでも、社会の悪者が設定され、ぶった切られる。ところが、政治的な話題に見せない、すなわち「政治的に中立」や「政治への忌避」を装いながら内在的に差別や偏見、偽りにまみれた記事もあり、そのようなツイートが見抜かれることなく、あるいは故意に拡散されたりする。

 「中立であること」に価値があると思われる世の中なのか、政治的主張をする人びとに対しては内容にかかわらず「どっちもどっち」の目が向けられる。これがすなわち現状肯定につながることは忘れられがちである。「中立」なんてどこにも存在しない。これがわからないから、主権者教育をしようとしても、結局やっているのは法律と制度の紹介である。これではダイナミックな政治に若者が関心を持てないのは当然である。
 「科学的根拠からすると・・・」もしばしば見られる表現である。「豊洲は安全」、「原発は安全」で、いたずらに不安を煽るやり方が間違っているという主張である。「科学的=客観的=中立的」であるという図式である。しかし少し前の記憶を持ち出せば、科学的根拠というのが極めて不安定で曖昧なものであり、また政治的であることは2011年3月で身に染みて理解したはずである。科学的・客観的事実を引き合いに出し、実際の生活に不安を感じている人びとの気持ちは置いていかれる。

 情報に溢れている現代社会、ますます情報リテラシーの重要さは高まる。果たしてそれはどこで身につけることができるのであろうか。フェイクニュースをどうして判断できるだろうか。ある主張が内在的には差別や偏見で満ちあふれているとどこで見抜くことができるようになるのだろうか。現実にある問題と結びつけるにはどうしたらいいのか。
 「多様な価値を認めよう」、「相手の気持ちになって考えよう」という言葉は、幼稚園・保育園・小学校から散々聞かされてきた言葉である。最初に戻る。子どものうちからテレビを見て、相手の価値を認めるのが大事だと言うこと、少数の犠牲はいけないことだと知っているはずである。だからムサシが褒められるのであり、地球は助かるのである。

 他者の価値を尊重することは、民主主義の基本であり、私たちがより良い社会をつくっていくための骨組みとなるはずである。しかし、個人の権利を認めようという要求が、ワガママであると却下されることもあってしまう世の中である。むしろエゴとエゴのぶつけ合いができた方が良いのではないか。ある問題が個人の問題(=自己責任)ではなく、実は社会で取り組むべき問題だと認識されるにはそこが重要ではないか。サラリーマンが、学生が、友人が、むやみに他者を攻撃する人に荷担している場を見てしまうと、他者が何を考え何をしたいと思っているのかを学べる機会は、これだけ情報に溢れた環境でも、意外に少ないのではないかと思ってしまう。多くの情報に触れることができ、同時に自分が簡単に発信者となれるいま、そのことを改めて思い起こしたい。