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援助の国際規範:Do No Harm(害悪を及ぼしてはならない)

投稿者 木場 紗綾:2017年3月2日
"Do No Harm"は、1999年に米国の開発経済学者であるメアリ・アンダーソンが執筆した本のタイトルである。『諸刃の援助:紛争地での援助の二面性』として日本語にも訳されている同書は、援助が、紛争を激化させてしまったり、保護を受けるべきである人々にさらなる傷を与えてしまったりするリスクを警告する。たとえば、紛争地の人々への支援物資を運ぶ道の途中で兵士に食糧の一部を略奪され、それが転売されて、結果的に援助が戦争に加担してしまうことになる、援助関係者が増えるとホテルや事務所の賃料が高騰して被支援国の市場経済を歪めてしまう、援助関係者がプロジェクトを終えて(あるいは治安が悪化して)その地を去ると、彼らのドライバーや物資配布の手伝いをして収入を得ていた現地の人々は急に職を失うことになる...などである。
こうした「援助の功罪」の事例は、本書が書かれて18年が経過した現代でも世界のあちこちでいまだに多く指摘されるが、同時に、「そうならないように気を配りましょう」という意味で、"Do No Harm"の概念は、人道支援に携わる者の「国際規範」として広く共有されてきた。国際人道NGOがハンドブックとしてとりまとめている、人道支援の現場において支援者が守るべき最低基準(スフィア・スタンダード)* には、人道危機の状況にあっても常に裨益者の権利を守るべきとの原則のもとに、"Avoid exposing people to further harm as a result of your action."(あなたの行為によって人々をより一層の害悪に晒すことがないように)との一文が明記されている。
国際規範などと言われると難しく感じるかもしれないは、日本国内の災害支援活動の例を思い浮かべるとわかりやすいのではないだろうか。2011年の東日本大震災でも、2016年の熊本地震でも、「被災地に古着を送ることはかえって迷惑になる」、「マスコミはいかに報道目的であっても、被災者の心をえぐるような無遠慮な質問をすべきではない」、「避難所の人々に安易にカメラを向けるべきではない」といったメッセージが、災害救援のプロであるNGOや現地のボランティア団体から発出された。これらの行為の何が"harm"(害悪)を引き起こすかは、すぐにわかるだろう。
メアリ・アンダーソンや上記のスフィア・スタンダードが想定する援助の現場は、紛争地における人道支援または緊急災害救援である。しかし近年では、"Do No Harm"の規範は、非紛争地の開発援助の世界や、ひいては、援助未満の行為にも適用されるようになっている。ひとつの例は、途上国に蔓延する貧困ツーリズム(poverty tourism)に対する国際機関や国際NGOからの警告である。
ケニアにはスラム・ツーリズム(slum tourism)を実施する旅行会社がいくつもある。旅行者は料金を支払ってスラムを見学する。「見世物」にされているスラムの人々は、それが収入になる現実を知っているので、旅行者の前では演技をする。学校に行くことができるはずの子どもたちが、観光客のために学校を休み、わざと貧しい身なりをして路上にたたずんでみせる。「ケニア スラム」で検索すれば簡単に、スラム・ツアーに参加した人々の体験記やBlog記事を日本語で読むことができるのと同時に、ツアーを批判する多くの英語記事が見つかる。2013年には南アフリカに「スラム疑似体験ができる、スラムそっくりの外観の高級ホテル」が作られた。「そんなにスラムを見たいなら、ここに泊まってはいかがですか」という皮肉であるが、賛否両論、大きな話題を呼んだ。
アジアでは、カンボジアの孤児院ツーリズム(orphanage tourism)が有名である。「見世物」専用の孤児院がいくつも存在し、子どもたちは学校に行かずに旅行者に笑顔を振りまくことを強要され、見ず知らずの外国人からの頬ずりや握手に晒される。残念ながら、顧客のなかには多くの日本人が含まれている。ユニセフはこうした貧困ツーリズムは"Do Harm"であると警告している。子どもたちの就学を阻害するのはもちろん、心身、とくに感情面の健全な発達をも蝕むからである。
貧困ツーリズムは(たとえ、旅行者がいくばくかの寄付をしているとしても)もはや「援助」ですらないが、もう少しグレーな行為に、スタディツアーやワークキャンプ、近年では大学のボランティア研修や、問題解決型学習(Project-Based Learning:PBL)を謳った海外研修がある。
私はフィリピンのマニラ首都圏のスラムの政治運動の研究をしているので、欧米、韓国、日本の人々が「スタディツアー」、「研修」、「学習」などの名のもとにスラムを視察・見学するのを見てきた。「無学でかわいそうな人々」という外部者の先入観とは裏腹に、スラムの人々は忙しく、そして情報通である。彼らは立ち退き反対や再定住地の確保や福祉の充実のための陳情のために社会福祉開発省、地方自治省、国家住宅庁、市庁、市議会などを渡り歩いては政治活動を行い、自分たちの小選挙区の議員たちの動向にも、市の政策にも非常に詳しい。彼らは訪問者の前でその知識を駆使して自分たちの置かれた立場を説明するが、政治の基礎知識もなく、おまけに英語すら聞き取れない外国人訪問者は、それらを理解してもらうことができない。挙句の果てに彼らに向けられる質問は、「なぜスラムに住んでいるのに携帯電話を持っているのか」、「テレビを買うのを控えて貯金すれば、貧困から抜け出せるのではないか」。(2016年、NHKの「貧困女子高生報道」が「炎上」したが、日本だけでなく先進国のイノセントな人々は過去20年以上、同じような質問や批判や説教を平気で外国で行ってきたのであろう。)...あまりにも同じパターンが多いので、スラムの人々も徐々に慣れており、訪問者が来るときはわざと着古した服を着用したり、家財道具を隠したりして、政治の話題は避けようとする。
いまから数年前、私がフィリピンで仕事をしていた時、東京のある大学の学生たちが授業の一環としてマニラのある老舗NGOを訪問し、そのNGOが支援するいくつかのスラムを視察した。私はそのNGOに務めるフィリピン人の友人の依頼で彼らの通訳を務めた。最終日の夜、学生たちの感想を聞くために、その老舗NGOの事務所に、職員らとスラムの方々が集まった。学生たちは、
「貧困の原因は、教育の欠如である」
「教育があればスラムから抜け出せるはずであり、フィリピン政府は教育機会を拡大させる政策をとるべきである」
というプレゼンテーションを行った。
スラムの人々は私の通訳を聴いて非常に険しい表情を浮かべていたが、最後に、それまでずっと黙っていた日本の引率教員が立ち上がり、英語で、
「フィリピンまで来て、いろんな人に迷惑をかけて受け入れてもらって、ここで、この人たちに『教育』してもらっているのは君たちじゃないのか。この人たちに教育が必要だなどと、どの口で言うのか!」
と学生を一括したときには、一斉に立ち上がって拍手を送った。
「スタディツアー」も「研修」も、最後には「教育」「学習」の名のもとに、「迷惑もかけたけど行ってよかった」、「自分たちの支援が本当に役に立ったのか結局よくわからないけど、よい経験になった」で総括されてしまう傾向にある。しかし、その行為が、現地にどんなharmを及ぼしたかを振り返らないままで「学習」になるのだろうか。
私は、学生が現地に赴くことや、現地の方々に迷惑をかけることを否定しているわけではない。ただ、自分の学びのために現地の人々と向き合い、言葉を交わすのであれば、少なくとも最低限のルールがあることを知り、基礎的な文献を読み、出発までにできるだけ多くの知識を得てから出かけてほしい。また、スタディツアーなどに参加する場合は、それが「貧困ツーリズム」ではないかをよく吟味してほしい。人と人とが繋がる以上、相手に迷惑をかけるのは自然ななりゆきであり、迷惑から生まれるものは多くある。しかし、迷惑とharm(害悪)とは異なる。先に挙げたさまざまな事例は、「迷惑」ではなくharmである。
援助であろうと教育であろうと、あるいは「取材」や「調査」であろうと、人々に無遠慮な質問をしたり、同意もなく写真を撮ったりしてはいけない。それは、単に「道徳的に申し訳ないから、迷惑だから」ではなく、「Do No Harmという国際規範に違反しているから」である。未成年であっても学生であっても、援助に類似する活動をする以上は、国際規範を学び、それに従う必要がある。高校野球選手のプレイや礼儀に対し、世間は、「高校生だからまあ仕方ないね」とは言わない。プレイヤーは何歳であっても、スポーツマンシップという規範や、最低限の社会的常識に従う必要がある。同様に、研修であろうと学習であろうと、少しでも援助の世界に足を踏み入れるからには、他の援助プレイヤーと同等にフェアにふるまうべきであるし、そのためには守るべきルールや規範を学ばなくてはならない。
私はこのコラムを、フィリピンのマニラで書いている。ここへ来る飛行機のなかでも、これからフィリピンのスラムを見に行くのだと目を輝かせている大学生に出会った。
独りよがりの援助、自己満足の支援をしてはいけないという「法律」はない。物見遊山で貧しい人々を見に行ってはいけない、学習の名のもとに彼らを利用してはならないという「決まり」はない。しかし、Avoid exposing people to further harm as a result of your action. あなたの行為によって相手をより一層の害悪に晒してはならない――これは、国際規範である。
*英語版はThe Sphere Projectのウェブサイトhttp://www.sphereproject.org/ から、日本語訳は認定NPO法人難民支援協会のウェブサイトから全文ダウンロード可能。支援の質と援助側の説明責任を確保するためにさまざまな基準(たとえば避難所を設置する際には一人当たりにどのくらいの量の水やトイレが必要か)が明記されている。
こうした「援助の功罪」の事例は、本書が書かれて18年が経過した現代でも世界のあちこちでいまだに多く指摘されるが、同時に、「そうならないように気を配りましょう」という意味で、"Do No Harm"の概念は、人道支援に携わる者の「国際規範」として広く共有されてきた。国際人道NGOがハンドブックとしてとりまとめている、人道支援の現場において支援者が守るべき最低基準(スフィア・スタンダード)* には、人道危機の状況にあっても常に裨益者の権利を守るべきとの原則のもとに、"Avoid exposing people to further harm as a result of your action."(あなたの行為によって人々をより一層の害悪に晒すことがないように)との一文が明記されている。
国際規範などと言われると難しく感じるかもしれないは、日本国内の災害支援活動の例を思い浮かべるとわかりやすいのではないだろうか。2011年の東日本大震災でも、2016年の熊本地震でも、「被災地に古着を送ることはかえって迷惑になる」、「マスコミはいかに報道目的であっても、被災者の心をえぐるような無遠慮な質問をすべきではない」、「避難所の人々に安易にカメラを向けるべきではない」といったメッセージが、災害救援のプロであるNGOや現地のボランティア団体から発出された。これらの行為の何が"harm"(害悪)を引き起こすかは、すぐにわかるだろう。
メアリ・アンダーソンや上記のスフィア・スタンダードが想定する援助の現場は、紛争地における人道支援または緊急災害救援である。しかし近年では、"Do No Harm"の規範は、非紛争地の開発援助の世界や、ひいては、援助未満の行為にも適用されるようになっている。ひとつの例は、途上国に蔓延する貧困ツーリズム(poverty tourism)に対する国際機関や国際NGOからの警告である。
ケニアにはスラム・ツーリズム(slum tourism)を実施する旅行会社がいくつもある。旅行者は料金を支払ってスラムを見学する。「見世物」にされているスラムの人々は、それが収入になる現実を知っているので、旅行者の前では演技をする。学校に行くことができるはずの子どもたちが、観光客のために学校を休み、わざと貧しい身なりをして路上にたたずんでみせる。「ケニア スラム」で検索すれば簡単に、スラム・ツアーに参加した人々の体験記やBlog記事を日本語で読むことができるのと同時に、ツアーを批判する多くの英語記事が見つかる。2013年には南アフリカに「スラム疑似体験ができる、スラムそっくりの外観の高級ホテル」が作られた。「そんなにスラムを見たいなら、ここに泊まってはいかがですか」という皮肉であるが、賛否両論、大きな話題を呼んだ。
アジアでは、カンボジアの孤児院ツーリズム(orphanage tourism)が有名である。「見世物」専用の孤児院がいくつも存在し、子どもたちは学校に行かずに旅行者に笑顔を振りまくことを強要され、見ず知らずの外国人からの頬ずりや握手に晒される。残念ながら、顧客のなかには多くの日本人が含まれている。ユニセフはこうした貧困ツーリズムは"Do Harm"であると警告している。子どもたちの就学を阻害するのはもちろん、心身、とくに感情面の健全な発達をも蝕むからである。
貧困ツーリズムは(たとえ、旅行者がいくばくかの寄付をしているとしても)もはや「援助」ですらないが、もう少しグレーな行為に、スタディツアーやワークキャンプ、近年では大学のボランティア研修や、問題解決型学習(Project-Based Learning:PBL)を謳った海外研修がある。
私はフィリピンのマニラ首都圏のスラムの政治運動の研究をしているので、欧米、韓国、日本の人々が「スタディツアー」、「研修」、「学習」などの名のもとにスラムを視察・見学するのを見てきた。「無学でかわいそうな人々」という外部者の先入観とは裏腹に、スラムの人々は忙しく、そして情報通である。彼らは立ち退き反対や再定住地の確保や福祉の充実のための陳情のために社会福祉開発省、地方自治省、国家住宅庁、市庁、市議会などを渡り歩いては政治活動を行い、自分たちの小選挙区の議員たちの動向にも、市の政策にも非常に詳しい。彼らは訪問者の前でその知識を駆使して自分たちの置かれた立場を説明するが、政治の基礎知識もなく、おまけに英語すら聞き取れない外国人訪問者は、それらを理解してもらうことができない。挙句の果てに彼らに向けられる質問は、「なぜスラムに住んでいるのに携帯電話を持っているのか」、「テレビを買うのを控えて貯金すれば、貧困から抜け出せるのではないか」。(2016年、NHKの「貧困女子高生報道」が「炎上」したが、日本だけでなく先進国のイノセントな人々は過去20年以上、同じような質問や批判や説教を平気で外国で行ってきたのであろう。)...あまりにも同じパターンが多いので、スラムの人々も徐々に慣れており、訪問者が来るときはわざと着古した服を着用したり、家財道具を隠したりして、政治の話題は避けようとする。
いまから数年前、私がフィリピンで仕事をしていた時、東京のある大学の学生たちが授業の一環としてマニラのある老舗NGOを訪問し、そのNGOが支援するいくつかのスラムを視察した。私はそのNGOに務めるフィリピン人の友人の依頼で彼らの通訳を務めた。最終日の夜、学生たちの感想を聞くために、その老舗NGOの事務所に、職員らとスラムの方々が集まった。学生たちは、
「貧困の原因は、教育の欠如である」
「教育があればスラムから抜け出せるはずであり、フィリピン政府は教育機会を拡大させる政策をとるべきである」
というプレゼンテーションを行った。
スラムの人々は私の通訳を聴いて非常に険しい表情を浮かべていたが、最後に、それまでずっと黙っていた日本の引率教員が立ち上がり、英語で、
「フィリピンまで来て、いろんな人に迷惑をかけて受け入れてもらって、ここで、この人たちに『教育』してもらっているのは君たちじゃないのか。この人たちに教育が必要だなどと、どの口で言うのか!」
と学生を一括したときには、一斉に立ち上がって拍手を送った。
「スタディツアー」も「研修」も、最後には「教育」「学習」の名のもとに、「迷惑もかけたけど行ってよかった」、「自分たちの支援が本当に役に立ったのか結局よくわからないけど、よい経験になった」で総括されてしまう傾向にある。しかし、その行為が、現地にどんなharmを及ぼしたかを振り返らないままで「学習」になるのだろうか。
私は、学生が現地に赴くことや、現地の方々に迷惑をかけることを否定しているわけではない。ただ、自分の学びのために現地の人々と向き合い、言葉を交わすのであれば、少なくとも最低限のルールがあることを知り、基礎的な文献を読み、出発までにできるだけ多くの知識を得てから出かけてほしい。また、スタディツアーなどに参加する場合は、それが「貧困ツーリズム」ではないかをよく吟味してほしい。人と人とが繋がる以上、相手に迷惑をかけるのは自然ななりゆきであり、迷惑から生まれるものは多くある。しかし、迷惑とharm(害悪)とは異なる。先に挙げたさまざまな事例は、「迷惑」ではなくharmである。
援助であろうと教育であろうと、あるいは「取材」や「調査」であろうと、人々に無遠慮な質問をしたり、同意もなく写真を撮ったりしてはいけない。それは、単に「道徳的に申し訳ないから、迷惑だから」ではなく、「Do No Harmという国際規範に違反しているから」である。未成年であっても学生であっても、援助に類似する活動をする以上は、国際規範を学び、それに従う必要がある。高校野球選手のプレイや礼儀に対し、世間は、「高校生だからまあ仕方ないね」とは言わない。プレイヤーは何歳であっても、スポーツマンシップという規範や、最低限の社会的常識に従う必要がある。同様に、研修であろうと学習であろうと、少しでも援助の世界に足を踏み入れるからには、他の援助プレイヤーと同等にフェアにふるまうべきであるし、そのためには守るべきルールや規範を学ばなくてはならない。
私はこのコラムを、フィリピンのマニラで書いている。ここへ来る飛行機のなかでも、これからフィリピンのスラムを見に行くのだと目を輝かせている大学生に出会った。
独りよがりの援助、自己満足の支援をしてはいけないという「法律」はない。物見遊山で貧しい人々を見に行ってはいけない、学習の名のもとに彼らを利用してはならないという「決まり」はない。しかし、Avoid exposing people to further harm as a result of your action. あなたの行為によって相手をより一層の害悪に晒してはならない――これは、国際規範である。
*英語版はThe Sphere Projectのウェブサイトhttp://www.sphereproject.org/ から、日本語訳は認定NPO法人難民支援協会のウェブサイトから全文ダウンロード可能。支援の質と援助側の説明責任を確保するためにさまざまな基準(たとえば避難所を設置する際には一人当たりにどのくらいの量の水やトイレが必要か)が明記されている。