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ベーシック・インカムについて

投稿者 井上 恒男:2017年1月1日
福祉国家おいて所得保障制度が行き詰まっている状況下、ベーシック・インカムへの関心が近年高まっている。ベーシック・インカムとは、簡単にいえば、全ての市民個々人に無条件に政府が支給する所得給付である。失業者や貧困者に対する従来の制度ではいわゆる「失業の罠」、「貧困の罠」といわれる現象が発生し、また、そのあい路を切り開くための「福祉から就労へ」に向けての様々な政策的工夫も決め手に欠け、かえって制度の複雑化やコスト増、就労の強制、制度からの排除等をもたらすという批判がある。これに対し、ベーシック・インカムは、社会保険料等の拠出を求められず、求職活動中であるとか資力調査のような選別主義的な要件はない。就労して収入が増加してもベーシック・インカムの額は削減されないので「失業の罠」等からは解放され、その水準によるものの個人の意思と能力に基づく柔軟な働き方が可能となり、併せて行政事務の簡素化、コスト減も期待できる。ベーシック・インカム構想が、左派にも右派にも支持されるゆえんである。この他、ベーシック・インカムは、今まで報酬を受けずに育児、介護等を主として担ってきた女性にも個人単位で支給されるため、フェミニズムの一部からも支持されている。
ベーシック・インカムは、その魅力故に欧州の一部の国では既に具体的な動きがある。例えば、スイスで2016年6月、ベーシック・インカム導入の是非が国民投票に付され(結果的には否決)、オランダの一部自治体やフィンランドでは社会実験が近い将来行われるようである。日本でも従来型の所得保障制度への閉そく感から、ベーシック・インカムへの歓迎論は少なくない。
確かにベーシック・インカムは魅力的な構想であるが、現実の政策手段となるには論点が多々ある。乗り越えるべき壁は高く、私自身も今のところ懐疑的立場である。ベーシック・インカムをめぐる論点のすべてを咀嚼することは到底困難であるが、歓迎論と懐疑論のいずれに立つのかの決め手になるのは、敢えて単純化すれば、就労に関する価値論と制度維持のための財政論の2点であろう。
第1の就労に関する価値論とは、いわゆる「怠け者」が増加するかもしれないことに対する是非論である。ある程度の生活が他律的に保障されれば、収入目的で就労するインセンティブは低下するので、勤労を徳としてきた社会では「怠け者」が増えることへのモラル論は強いであろう。「怠け者」が増えると経済活動が細り分配すべきパイが小さくなる、という経済的観点からの懸念も加わる。これに対しては、ある程度の生活水準を望む者は収入を増やすために就労するだろう、という反論がありうる。また、人は自己実現や世の中への貢献等のためにも働いているので、生活が保障されたからといって直ちに就労意欲が低下するとはかぎらない面もある。しかし、就労意欲は様々な社会労働環境にも左右されるので、予測は難しい。他方で、就労することが問われなくなり、報酬とは無関係なボランティア活動や文化活動が盛んになれば新たな価値が創造される可能性があり、あるいはやりたいことが仕事になっていけば労働が良質となり経済効率はあがるかもしれない。マクロ的にも、そもそも完全雇用の実現を期待できず一定程度の非就労者の存在が避けられない現代社会において、彼(彼女)らを就労させることにどれだけの経済的意義があるのか、という見解もある。ただ、「怠け者」にも支給されるベーシック・インカムの財源は就労者が産み出しているのであるから、「フリーライダー論」というモラル論は付きまとう。そもそもまた、小人閑居して・・・いう社会にならないという保証はない。
第2の制度維持のための財政論とは、いうまでもなく財政的に持続可能かという懸念である。ベーシック・インカム導入により経済活動が縮小するリスクがあることはひとまずおくとしても、ベーシック・インカムは、富裕層も含めすべての人に対する無条件の給付である。必要な者にだけ支給される従来の所得保障制度と比べ膨大な財政負担になることは明白である。1億2千万人強の日本国民全員に一律に支給するとすれば、その水準にもよるが100兆円を軽く超える規模となり、既存の所得保障制度を置き換えたとして所得税ベースで40%台の負担になるという試算もある。増税への抵抗が極めて強い国民性を考えると、従来の所得保障制度に代わる魅力的な提案とはいえ、国民の支持を得るのは現時点では至難であろう。
以上の2つの論点のうち第2の重い負担だけに限定すれば、私個人は、それと引き換えに簡素で公正な所得保障制度に転換する構想に魅力を感じている。ただ、相応の負担を覚悟する一方で第1点の就労に関する論点に戻ると、世の中は聖人君子ばかりではないので、ベーシック・インカムといえども就労、就労していない場合は求職活動、子育て、介護等の誰もがある程度納得できる活動を行っていることを条件付きとすべきではないか、と現時点では考えている(そのための線引きや制度の複雑化という課題は残るが)。つまり、私は、就労等をまったく問わない完全なベーシック・インカムには賛同できず、アンソニー・B・アトキンソンがかつて提唱した参加所得的な修正ベーシック・インカム構想には共感している。
ともあれ、懐疑論、歓迎論のいずれも、従来のほとんどは「・・・ではないか」という推測的な議論の段階にとどまり、実証的な検証は不足している。ちなみに、すべての子どもへの給付や高齢者への最低保障年金をベーシック・インカム時代の幕開けと期待する議論が我が国の一部にあるが、それらは就労とはほとんど無縁の給付であり、その給付設計のあり方論は選別主義か普遍主義かをめぐる従来の政策論以上のものではない。現役世代における就労と所得の関連をどう設計するのか、ということこそがベーシック・インカム構想の本丸であると私は捉えている。ベーシック・インカムの導入は、現役世代の就労と所得を切り離すという福祉国家の根幹を転換させるラディカルな構想であるだけに、その本質論を十分踏まえ、地に足をつけた政策議論が必要であろう。その意味で、国情の違う他国とはいえ、一部諸国においてベーシック・インカムが実証研究の段階に入ったことに極めて大きな意義を感じる。
ベーシック・インカムは、その魅力故に欧州の一部の国では既に具体的な動きがある。例えば、スイスで2016年6月、ベーシック・インカム導入の是非が国民投票に付され(結果的には否決)、オランダの一部自治体やフィンランドでは社会実験が近い将来行われるようである。日本でも従来型の所得保障制度への閉そく感から、ベーシック・インカムへの歓迎論は少なくない。
確かにベーシック・インカムは魅力的な構想であるが、現実の政策手段となるには論点が多々ある。乗り越えるべき壁は高く、私自身も今のところ懐疑的立場である。ベーシック・インカムをめぐる論点のすべてを咀嚼することは到底困難であるが、歓迎論と懐疑論のいずれに立つのかの決め手になるのは、敢えて単純化すれば、就労に関する価値論と制度維持のための財政論の2点であろう。
第1の就労に関する価値論とは、いわゆる「怠け者」が増加するかもしれないことに対する是非論である。ある程度の生活が他律的に保障されれば、収入目的で就労するインセンティブは低下するので、勤労を徳としてきた社会では「怠け者」が増えることへのモラル論は強いであろう。「怠け者」が増えると経済活動が細り分配すべきパイが小さくなる、という経済的観点からの懸念も加わる。これに対しては、ある程度の生活水準を望む者は収入を増やすために就労するだろう、という反論がありうる。また、人は自己実現や世の中への貢献等のためにも働いているので、生活が保障されたからといって直ちに就労意欲が低下するとはかぎらない面もある。しかし、就労意欲は様々な社会労働環境にも左右されるので、予測は難しい。他方で、就労することが問われなくなり、報酬とは無関係なボランティア活動や文化活動が盛んになれば新たな価値が創造される可能性があり、あるいはやりたいことが仕事になっていけば労働が良質となり経済効率はあがるかもしれない。マクロ的にも、そもそも完全雇用の実現を期待できず一定程度の非就労者の存在が避けられない現代社会において、彼(彼女)らを就労させることにどれだけの経済的意義があるのか、という見解もある。ただ、「怠け者」にも支給されるベーシック・インカムの財源は就労者が産み出しているのであるから、「フリーライダー論」というモラル論は付きまとう。そもそもまた、小人閑居して・・・いう社会にならないという保証はない。
第2の制度維持のための財政論とは、いうまでもなく財政的に持続可能かという懸念である。ベーシック・インカム導入により経済活動が縮小するリスクがあることはひとまずおくとしても、ベーシック・インカムは、富裕層も含めすべての人に対する無条件の給付である。必要な者にだけ支給される従来の所得保障制度と比べ膨大な財政負担になることは明白である。1億2千万人強の日本国民全員に一律に支給するとすれば、その水準にもよるが100兆円を軽く超える規模となり、既存の所得保障制度を置き換えたとして所得税ベースで40%台の負担になるという試算もある。増税への抵抗が極めて強い国民性を考えると、従来の所得保障制度に代わる魅力的な提案とはいえ、国民の支持を得るのは現時点では至難であろう。
以上の2つの論点のうち第2の重い負担だけに限定すれば、私個人は、それと引き換えに簡素で公正な所得保障制度に転換する構想に魅力を感じている。ただ、相応の負担を覚悟する一方で第1点の就労に関する論点に戻ると、世の中は聖人君子ばかりではないので、ベーシック・インカムといえども就労、就労していない場合は求職活動、子育て、介護等の誰もがある程度納得できる活動を行っていることを条件付きとすべきではないか、と現時点では考えている(そのための線引きや制度の複雑化という課題は残るが)。つまり、私は、就労等をまったく問わない完全なベーシック・インカムには賛同できず、アンソニー・B・アトキンソンがかつて提唱した参加所得的な修正ベーシック・インカム構想には共感している。
ともあれ、懐疑論、歓迎論のいずれも、従来のほとんどは「・・・ではないか」という推測的な議論の段階にとどまり、実証的な検証は不足している。ちなみに、すべての子どもへの給付や高齢者への最低保障年金をベーシック・インカム時代の幕開けと期待する議論が我が国の一部にあるが、それらは就労とはほとんど無縁の給付であり、その給付設計のあり方論は選別主義か普遍主義かをめぐる従来の政策論以上のものではない。現役世代における就労と所得の関連をどう設計するのか、ということこそがベーシック・インカム構想の本丸であると私は捉えている。ベーシック・インカムの導入は、現役世代の就労と所得を切り離すという福祉国家の根幹を転換させるラディカルな構想であるだけに、その本質論を十分踏まえ、地に足をつけた政策議論が必要であろう。その意味で、国情の違う他国とはいえ、一部諸国においてベーシック・インカムが実証研究の段階に入ったことに極めて大きな意義を感じる。