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政策最新キーワード

WHOと公共サービス提供主体の多元化

今川 晃 投稿者 今川 晃 : 2009年6月29日

有名な1946年のWHO憲章では、健康は単に疾病または病弱の存在しないことではなく、身体的、精神的、社会的に良好な状態が保たれることが必要とされる。その後、健康の定義をめぐる議論は、人間の尊厳に関わる領域にまで広がっていく。また一方では、日本も参加した1978年のWHOとUNICEFの共催によるプライマリ―・ヘルス・ケア国際会議では医療における一次予防の重要性も共有され、さらに1986年のWHOのヘルス・プロモーション憲章では、健康増進における社会的環境の改善の必要性も確認されていくこととなる。

こうなってくると公衆衛生と社会科学はますます密接になるわけであるが、健康づくりと「まちづくり活動」も融合していき、NPO等の多様な主体が健康に関する公共サービスの提供主体として期待されるようになる。しかしこのような変化は、同時にかつての公衆衛生における行政責任を後退させ、WHOの「健康思想」の流れは、「NPM (New Public Management) 思想」に飲み込まれ、「公共サービス提供主体の多元化」が何にも増して重要な「政策選択」となる可能性を秘めていくこととなる。
国は2000年に健康日本21の推進を行い、2003年には健康増進法を施行した。同法では、都道府県には健康増進計画策定を義務付けているが、市町村は努力規定に留まっている。計画では、財政難を理由に民による公共サービスや自己責任を強調することは、どことなく歓迎されるが、「健康思想」の「政策選択」の重要性はあまり認識されないかもしれない。
自治体の政策であってもWHOのような国際機関の影響力を受けるものの画一的ではなく、実際に現場を抱える自治体の価値選択でその自治体の方向性は決まるのである。ちなみにWHOの健康都市連合への日本の加盟都市は25市(2008年7月25日現在)であり、「健康思想」を優先した政策選択がなされ、一定の行政責任の認識を前提に「健康思想」に基づく政策展開が行われているのである。

「お役人」の2つの顔

平柗 英哉 投稿者 平柗 英哉 : 2009年6月23日

いわゆる「お役人」なる人々に対して、「おカタい」、「話がつまらない」というイメージを抱く人は多いと思う。実際、彼らが人前で話す姿を観察すると、無表情で、小難しい言葉を並べ立てたり、語尾の言い回しがダラダラ長かったりして、何を伝えたいのだか全く分からないスピーチをしているケースも多々見られる。そのような彼らの態度は、しばしば批判の対象になる。さらに、彼らのうちのごく一部の人間が不祥事を起こすたびに、上記の態度と相まって、「市民の方を向いていない。自分の保身の事しか考えていない。」というレッテルを貼られることもよくある。
しかし、筆者が、国や自治体の職員と一緒に酒を飲みに行った時、あるいは、公の場であっても「個人的見解をお聞かせ願いたい」とリクエストした時、彼らは全く別の顔を見せることがある。その時の彼らは、仕事の中身について普通の言葉を用いてわかりやすく話す。時には表情豊かに熱弁を振るうこともある。そのような彼らの行動を目の当たりにするたびに、彼らも我々と同じ人間であり、そして、仕事に対して並々ならぬ関心と情熱を注いでいる人たちが大勢いるということを痛感させられる(もっとも、彼らの「頑張り方」にまったく問題がないとは言わないが)。
同一人物が全く別の顔を見せる現象を、行政研究を趣味兼職業とする筆者は何度も目にしてきた。では、なぜこのようなギャップが生じるのだろうか?
行政職員には、少なくとも2つの顔がある。1つは担当する政策をあずかる専門家としての顔である。もう1つは、公選政治家に仕え支える者としての顔である。
彼らは時と場合によってこの2つの顔を使い分ける。そして、多かれ少なかれ、葛藤を抱えながらその使い分けを行っている。 
例えば、郊外のとある市でコミュニティバスを導入しようとしたとする。ところが、バス利用の需要が十分に見込めず、利用者が少ないのに大きなバスを市内に走らせると費用対効果の面でも環境の面でも問題がある。しかし、市長はコミュニティバスの導入を公約に掲げて選挙で当選しているというケースがあったと仮定しよう。
このようなケースにおいて、市役所の公共交通分野の担当職員は、どちらの顔をするのだろうか。市役所内部での検討の場においては、おそらく彼は政策をあずかる専門家の顔をして、コミュニティバスの導入は不合理であり、税金のムダ遣いだから市民のためにならないという意見を表明するであろう。しかし、議会や市民から行政の方針を問われた場合、あるいは市の公式見解を文書として公表する場合には、公選政治家に仕え支える者としての顔をして、市長の方針を正当化するような説明を行うであろう。行政職員とは、民主的な手続きによって選ばれた首長(あるいは大臣)によって任命された存在であり、首長・大臣を支えるということが彼らの使命であるからである。上記のケースに限らず、「担当する政策をあずかる専門家」としての見解と「公選政治家に仕え支える者」としての見解が乖離するような状況は、行政の世界においては珍しいことではない。
こういったケースにおいて行政職員が所属行政機関の公式見解を説明するとき、専門家としての個人的見解とは裏腹な説明を行わなければならない。さらに、行政の活動は、様々な利害や意見を持つ市民に対して幅広く理解を得ることが求められる。したがって、内容面でも言い回しの面でも、「当たり障りのない」、「特定の市民から反感を買いにくい」説明の仕方が求められるから、行政機関の公式見解は、ますます担当者としての個人的見解とはかけ離れたものへと変化を強いられることになる。こうした公式見解を表明するとき、彼らは少なからぬ葛藤を内面に抱えながら、その任務を遂行しなければならない。こういった背景のもとで、彼らは「おカタい」、「つまらない」説明を行うことを強いられるのである。 

なお、多かれ少なかれ、すべての行政職員は、こういった葛藤を内面に抱えながら、日々の業務を遂行している。実際、彼らの行動を注意深く観察していると、ちょっとした仕草や言葉の端々から、葛藤に苦しむ彼らの内面が垣間見える瞬間がある。行政研究者である筆者としては、彼らが公共政策の担い手として魅力的な存在であると感じる一番の瞬間である。
ところで、政策学部の4年間では、現職の行政職員に接する機会が数多く用意されている。もし、あなたが当学部に入学して、そのような機会を得たときには、以下の点に関心を持って彼らと接すると、行政なるものの本当の仕組みがよく見えてくるはずである。
「この人は、今、どちらの顔をしているのか?」