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スリランカ内戦の終了

月村 太郎 投稿者 月村 太郎 : 2009年5月27日

5月19日にスリランカのラージャパクサ大統領は内戦の終了を宣言しました。1983年以来、20年以上にわたって続いてきたスリランカの内戦がこれで終結しました。この間の犠牲者は7万人以上と言われています(スリランカの基本情報については下記の外務省HPを御覧下さい)。
スリランカ内戦は民族紛争の一例として考えることができます。約2000万人のスリランカ人口のうち、仏教徒が多くシンハラ語を話すシンハラ人が70%強を占め、これに対してヒンドゥー教などの信徒がおりタミル語を話すタミル人が最大の少数民族です。一見すると、[シンハラ人対タミル人]という紛争の単純な構図が最初からあったように見えます。しかし民族紛争はどの例でもそうなのですが、その構図を[A民族対B民族]と簡単に割り切ることは、実態の理解を誤らせる危険性を持っています。
スリランカでは多数派のシンハラ人も少数派のタミル人も、その内部に分裂の軸を持っていました。シンハラ人については、19世紀初めにイギリスに征服される前にスリランカを支配していたキャンディ王国住民の末裔(高地シンハラ人)と西欧の支配が早くから続いていた沿岸部の住民(低地シンハラ人)という2つのグループがありました。タミル人も、早くから対岸のインド南部から移民していたスリランカ・タミル人と19世紀にイギリスが開発した紅茶のプランテーションで働く為にインド南部から渡ってきたタミル人労働者(インド・タミル人)とに大きく二分することができました。その上に、シンハラ人にもタミル人にもカーストがありました。このように複雑に分裂しているスリランカの社会を[シンハラ人対タミル人]という単純な二分法へと動かしてしまったのは、何よりもまず政治によるナショナリズムの利用でした。
1948年に独立したスリランカ(当時はセイロン)において最初に政権に就いたのはシンハラ人とタミル人が協力した統一国民党でした。両民族はインド・タミル人の扱いと公用語の問題で対立してきますが、それを民族紛争へと激化させたのはスリランカ自由党であり、シンハラ・ナショナリズムに訴えるスローガンである「シンハラ・オンリー」でした。
スリランカ自由党政権時代の1972年に憲法が改正され、シンハラ語のみの公用語化が改めて明記され、仏教に特別な地位が与えられました。これにより[シンハラ人対タミル人]という構図が作られてしまったのです。「シンハラ・オンリー」に反発したタミル人はヒンドゥー教徒を中心にタミル統一戦線を組織し、ゲリラ組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)も結成されました。以後、スリランカ政府軍とLTTEの内戦が本格化していきます。
内戦の間、1987年にインドが間に入ったインド・スリランカ和平協定、2002年にノルウェーが仲介した停戦協定はいずれも長続きしませんでした。特に前者においては、インドがPKOを派遣しましたが失敗し、更に協定締結時のインド首相だったラジーヴ・ガンジーが1991年にインド南部で暗殺されるという事件も起きました。インド南部には約5000万人のタミル人が居住しているのです。
スリランカ内戦は最終的にはスリランカ政府の実力行使によって終わりました。今後は紛争後の復興や和解という困難な作業が待ち受けています。これまでの経緯から、そうした作業において日本が果たす役割は大きなものとなるでしょう。
我々がスリランカ内戦から汲み取るべき教訓は多岐にわたると思います。ここでは、政治がナショナリズムを安易に利用したひとつの結果が、スリランカ内戦であったという点を指摘しておきましょう。そしてこうした事例は世界の歴史において事欠かないのです。

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消えゆく京町家

式 王美子 投稿者 式 王美子 : 2009年5月14日

昨年の秋、我が家の郵便受けに「平成20年度京町家まちづくり調査」のアンケートが入れられていた。我が家(貸家)が果たして「町家」なのかは定かではかったが、見た目からして古い木造住宅であることは間違いない。このアンケートが配布されているということは、この家はやはり「町家」だったのだなと改めて思った。

そもそも、京都に暮らすことになった時、特に町家を探していたわけではなかった。たまたま、家賃、間取り、そして何より職場へのアクセスに関して、私の住宅ニーズとのマッチングがよかった。また、初めての関西での住まい探しで、保証金の存在とその高さに当惑していたところに、この貸家の全国平均的な敷金礼金に好感を持った。玄関の屋根の上の鍾馗さまが厄除けになるとの大家さんの話も、京都らしくて興味をそそられた。

そして、何よりこの家の中で最もポイントの高かったのが小さな坪庭だった。引っ越したときには、椿の花が咲いていて小さな庭にほのかな香りを漂わせていた。狭く薄暗い空間にあった一輪の赤い花は、ここでの生活の何かいい予兆にさえ思えた。今でも、毎朝窓を開けると庭の木々のさわやかな香りがする。それだけでもこの家に住んでよかったと思える。


さて、この家を「町家」と再確認させてくれたアンケートは、京都市景観・まちづくりセンターが行っている。「昭和25年以前に伝統軸組構法で建築された木造家屋を「町家」として、様々な取組を行って」いるということだ。近年、京町家は建て替えなどで年々消滅していっており、町家とその居住者の実態を把握することで、町家の保全・再生・活用の推進に活かそうというのがアンケートの主旨である。

消えゆく京町家。これを食い止めることはできるのか。大いに満足感を覚えつつ町家に住みながらも、私が出す答えは、残念ながら「NO」である。

町家カフェ、町家レストラン、町家エステなど「ほっこり」系の町家商業施設は一般的に人気が高いように思うが、住居用としての町家は、私個人の経験からは、概して人気がない。私の町内では町家に住んでいるのは高齢者が多く若い世帯は見かけない。また、町家に住んでいますと告げたときの京都や関西在住の人々の反応は、「不便でしょう」、「寒いでしょう」、「暑いでしょう」、「近所づきあいが大変でしょう」というものだ。母を含め年齢層の上の世代にも不評だ。ちなみに、東京及び海外在住の友人知人には興味を持たれる。町家生活の実情を分かっていないということか・・・。

確かに町家は古い。壁の色はくすんでいるし、建てつけも悪い。また、奥に長い間取りのために一つ一つの部屋が狭く、また暗い。椅子とテーブル、ソファで光に溢れた生活を望む人には理想的な居住空間とはいえない。その古い住宅を、「趣がある」と思うか「ボロい」と思うかは個人の趣味でもあるが、現代のライフスタイルの中で在来の和風の住居が全体的に不人気な状況から推測するに、多分前者を選択する人は少数派であろう。

現在、消えゆく京町家を保存しようと、歴史的・文化的な建物として認定し、保全・再生に助成金を出すという活動が行われている。しかし、町家として存在している住宅の中で、歴史的・文化的に重要な価値があると認定される建物の割合はそんなに高くはないだろう。全体的な住宅としての町家の需要が低い限り、一般的な町家(例えば我が家の貸家のような)は、経年の老朽化に耐えられなくなった時、需要のあるかたちの現代風住居に建て替えていかざるをえず、最終的に町家として生き残るのは、商業施設としての町家や歴史的・文化的に価値のある少数の町家であろう。

そう思うと、消えゆくこの一般的な「生ける」町家に住んでいることは貴重な体験だと意を強くさせられる。借家仮住まいの気楽さではあるのだが、周囲から指摘され自覚もする様々の不便、不快、不効率を超えて、住むことの楽しみさえをも感じている。

参考サイト
京都市景観・まちづくりセンター「京町家まちづくり調査について」