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政策最新キーワード

年越し派遣村

柿本 昭人 投稿者 柿本 昭人 : 2009年1月7日

ほんの半年前、問題になっていたのは「日雇い派遣」だった。
法令違反、低賃金、労働災害、求職活動の余裕無し。

だが、年末年始のニュースの時間のたびに目にすることになったのは、
「派遣切り」で仕事と住まいを失ってしまった大量の「元派遣労働者」の人々である。
日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」は当初の想定を越えた人々が押し寄せ、
パンク状態に陥ってしまった。

ソフトウエア開発などの専門13業務に限定されて労働者派遣法が施行されたのが1986年。
1996年には26業務に拡大、
1999年には「原則自由化」がなされ、
今回の大量の「派遣切り」へとつながる製造業への派遣解禁が行われたのが2004年のことである。

製造業の国際競争力維持を目的に導入されたはずの、
製造業への派遣解禁だったはずである。
昨年9月の「リーマン・ショック」のさいも、
「バブル崩壊後、日本の企業は筋肉質となっており業績の悪化は限定的だ」と政府も、
経済アナリストたちも、日本の製造業にお墨付きを与えていたはずである。
世間の耳目を集めているのは、その落差からなのか。

「派遣切り」はイレギュラーな事態ではなく、
2004年の製造業への派遣解禁が道を開いた「本来的な」事態であろう。
必要なときに雇い、必要でなくなったら、
労働者派遣法施行以前のような物理的・心理的コストなしで「雇用調整」すること。
人材の「ジャストインタイム」化の発露であろう。
だからこそ、「ジャストインタイム」生産方式のご本家が、
大量の「派遣切り」の範を垂れ、
他の企業も「ご本家がそうなだから、うちも……」と後に続いたのである。

先月初旬の「世界的な景気の急激な落ち込みによって、
苦渋の選択として雇用調整が行われている」と仰る経団連会長の発言は、
事態を不正確というか、正反対にトレースするものである。
いや、瞞着でさえある。

1月5日、総務政務官である坂本哲志議員は、総務省の仕事始めの挨拶で、
「年越し派遣村」について、こう述べた。
「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」。
翌日彼は発言を撤回するが、
大した反対もないしに製造業への派遣解禁が行われたときの
一般の風潮そのものである。

そして、それはなにもそのとき初めてというわけでもない。
「山谷」「寿」「釜ヶ崎」等の寄場にも繰り返し、
「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」
という眼差しを人々は向けてこなかったか。
あるいは「途上国」にも。

"That you were less than human, so it didn't matter."
-- Kazuo Ishiguro, Never Let Me Go (2005)

投資ファンドの跋扈を前にして、
人々は「カジノ資本主義」という言葉を思い出した。
スーザン・ストレンジが同名の著作を世に出したのは随分と以前の1986年である。

ところが、「実体経済」の側も、
それに負けず劣らず「ネズミ講」並であることも、
我々は今一度思い知っておくべきであろう。
「人間以下」の者として上前がはねられて、
上納金が吸い上げられている限りで作動を継続するシステムである。

「私を離さないで」と
「人間以下」の者として扱われないように、
押し合いへし合いをしているうちに、
「人間以下」の者の比率が一定の閾を越え、
その途端に、生産されたモノを消費すべき人間が忽然と姿を消してしまう。
生じるのは、消費からの総退却である。

行列と成熟

久保 真人 投稿者 久保 真人 : 2009年1月5日

 昨年の秋、学会で北海道に行った時の話である。やはり北海道土産をと思い、札幌駅前のデパ地下に立ち寄った。特にあてはなかったが、あたりを見まわすと、あるタレントが経営している牧場の名前が、世情に疎い私でもその牧場が販売している生キャラメルが評判になっていることぐらいは知っていた。さすがに店の前は行列していたが、言うほどでもない、私は軽やかな足取りで行列の最後尾にまわった。ところが、最後尾には「午前中の販売は終了しました」の看板が、怪訝そうな顔で(自分で自分の顔を見たわけではないが、おそらくそんな表情を浮かべていたのであろう)まわりを見まわしていると、フロア担当者らしき人が、これも、「申し訳ありません」という表情を浮かべて近寄ってきた。
「次の販売は午後からですか?」
「はい午後に製品が到着してからの販売となりますが、午後の分もすでに完売しております」
「???」
 すると、担当者はデパ地下の入り口前の行列を目で示した。まだ、10時過ぎたところである。これから少なくとも2時間以上の間、生キャラメルのために並んでいるというのである。もしかしたら、“無念の”午後組も開店前から並んでいたのかもしれない。ドア越しに、その生キャラメル店を見つめる数多くの熱いまなざしにいたたまれなくなって、場を離れた。

 心理学には、「満足の遅延」という概念がある。すぐに手に入る報酬よりも、価値の高い報酬を得るまで満足を遅らせる行動を指す。たとえば、給料をその場で使ってしまうのではなく、将来のより大きな満足のために貯金するという行為も満足の遅延にあたるであろう。ミッシェル(Mischel, W))によれば、満足の遅延は、目の前の報酬をあきらめ、より価値の高い報酬を選択する過程と将来の報酬を得るまでの期間、その欲求不満に耐える過程の2つからなる。
 ご想像通り、一般に、幼い子どもでは、遅延時間が長くなるほど自分を抑えておくことが難しくなる(目の前の報酬に手を出してしまう)が、発達とともに、比較的長い満足の遅延にも耐えられるよう、自身をコントロールできるようになる。この意味で、満足の遅延は、人としての成熟を示す指標の一つであると言えよう。

 とすれば、午後の販売に向けて、ひたすら待つことを選択した人たちは、成熟した人たちと言うことになり、他の店で土産物を買い込み、そそくさと店を離れた私は(しかも店の中で目にとまった“しぼりたて牛乳”を衝動買い、その場で封を開け飲みほすなどということもしている)、さしずめ、満足の遅延を学習していない未熟な存在と言うことになる。しかし何か納得がいかない。

 その後、千歳空港に着き、再び生キャラメルの行列を目にすることになる。細かいグループに分けられ、時間が来れば、グループ毎に店に突入する段取りになっているようだ。ちらっと見やった行列は、遙か向こうまで続いていた。
 満足の遅延がなされるには、個人の成熟度とともに、当然のことながら、将来の報酬が目の前の報酬に比べて、待つに値するほどの価値を持つものでなければならない(金利が下がれば預金する人の数は減ってしまう)。ならば、生キャラメルが満足の遅延を成立させるためには、それがとても大きな価値を持つか、あるいは、日曜日の朝、2時間以上後のキャラメルより価値のある行為がなかったのか、そのいずれかということになる。仮に後者ならば、今の世の中について、少し考えてみる必要があるかもしれない。